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読ログ#8なぜ勉強するべきなのか

もっと早くに出会いたかった本。

この本は、大阪のテレビタレント遥洋子が東大を代表する教授上野千鶴子の元で学んだことを本にしたものだ。

『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』


チョーーーーーーーーー面白かった。
当然interestingな内容なのだが、同時に遥が描く上野が非常にfunnyだった。
本を読みながら声を出して笑ったのは久しぶりだった。
こんなに濃いのに、読みやすい本があっていいのだろうか。

上野千鶴子は日本を代表するフェミニストであることは周知の事実だけれど、恥ずかしながらこれまで彼女の著書を読んだことはなかった。

いきなり何のベースもなく難解な本を読むのは苦手で、
エッセイや、この本のように話口調のものから、その人の人柄に興味をもつころでその領域について深めていくのが私の本の読み方の定石だ。

今回も案の定、この本をきっかけに上野千鶴子の難解な題の本を片っ端から貸りてきて目を通している。(stay homeなのでね。)


さて、内容に入ろう。

なぜ勉強するべきなのだろうか。
この問いに対してようやく納得のいく答えを見つけられた。


誰もが、人生で1度は考えたことがあると思う。
なぜ勉強しなければならないのか?
私も何百回と考えたことがある。
その度に納得できない、うやむやな答えにしかたどり着けなかった。

勉強が嫌いな訳ではない。
むしろ、勉強は好きだ。

勉強を通して得られる”感動”が私は大好きだ。
点と点が線で繋がる感覚。
先人たちの軌跡を辿る感覚。
その軌跡と自分とが重なる感覚。

何とも言えない満たされる感覚になる。

しかし、だ。

そもそも勉強って何だろう。
何のために勉強をするのだろう。

そんな一見簡単そうな問いに、自分なりに満足のいく答えを見つけ出せずにいた。(別にそれでいいのだけれど。答えなんて1つでなくて良いのだから)


勉強とは何か。

大学に入って、より一層考えるようになった。
勉強って何なんだろう?

大学に入ると、答えなんてなくなる。
答えを見つけることよりも、自分で問いをつくることの方がはるかに難しく、勉強が必要だ。

大学に入って感じたのは、「何がわからないのかが分からない。」
ことだった。

例えば、論文を読んで、結局何が言いたいのか理解できないとする。
そういう状況になった時、私の頭が悪いから理解できないのか。
そもそもその論文が良くないのか。
その区別がつかない。

大学での勉強は、教えを乞うことではなく、批判することだった。
答えを見つけるのではなく、そこから新たな問いを見つけることだった。
「勉強」をしていないと、「勉強」はできなかった。

「教養」や「オリジナリティ」に神秘的な意味を与える必要はない。
「すでに知られていること」が何かを知ること。
それと自分の考えていることがどう違うかを分節する能力をもつこと。
「異見」はそのようにして創られる。

これが「勉強」だ。
私の勉強は、まだ始まってすらない。


卒業論文とは何か。何故これが卒業条件に組み込まれているのか。

「企画」とはその年のテーマ設定で、教授の研究テーマに負う。
研究者のテーマ選択は直感というアンテナだ。
「構成」とは、膨大な文献をどう選択し、プログラムするかというセンス。
「演出」とは日々のゼミに飛び交う言葉を慎重に交通整理する力。
それらを総動員してフィナーレを迎える冬に何を「提供」するかというと、「感動」だ。

これまでの勉強を総動員し、「感動」を提供することが卒業論文のゴールである。



勉強は、した方が良いものではない。
”するべきものである”、と私は思う。


生きることは、”戦い”だ。
知とは、”権力”だ。


これは完全なる私の持論である。

理不尽だ、と怒ったことはあるだろうか。
でもどうにもできず、悔し泣きした経験はあるか。
ふと吐かれた暴言に、ふと振るわれた暴力に、傷ついたことはあるか。
それに対抗できなかった経験はあるか。
自分の声が届かなかった経験はあるか。
のし上がりたい階段はあるか。


生きていると、戦わなければならない場面がある。
戦いたくなくとも、ケンカをふっかけられることがある。


そのケンカに勝つための方法の一つに、”知”すなわち”勉強しておくこと”があるように思う。

ケンカは攻撃面と守備面があるが、ケンカ嫌いの人はじゃあ勉強しなくていいかというとそうではない。
守り。自分の身を守るためにケンカを余儀なくされる時もある。
権力闘争に加担せず、他人に守ってもらう人生を選択しても、その最愛の人とですら、自己の存在をかけて言葉が必要なときがある。


例えば、
「女は家庭にいるべきだ」「女の幸せは結婚して子供を産むことだ」
「それでも女なのか」「学生なんだから我慢しろ」

他人にこんな不愉快な固定観念を振りかざされた時、
最愛の恋人にケンカをふっかけられた時、どうするか。

そんなのおかしい!
気持ちだけじゃ負かせない。

そんなの間違ってる!
直感だけでは足りない。

それを補うのが、論理であり、知識である。
何でおかしいのか、何で間違っているのか、
それを伝えるためには勉強をしておく必要がある。

自分が間違った固定観念を人に振りかざさないためにも。


自分を守るためにも、ケンカに勝つためにも、勉強はしておくべきだ。
知とは力である。



上野千鶴子という人間。


なんともカッコいい人間だと思う。

ケンカに勝つ方法を尋ねる遥に、

「相手にとどめを刺しちゃいけません。
その世界であなたが嫌われ者になる。それは得策じゃない。
議論の勝敗は聴衆が決めます。
相手にとどめを刺すのではなく、もて遊んでおけば、勝ちはおのずと決まるもの。それ以上する必要も、必然もない。」

そう言い放つ賢明さも。

生徒からの質問に対して

「援助交際に関して、お金で体を売ると体が汚れますと発言する人に、先生ならどう言いますか?」
「汚れたら元には戻らないんですか?どうしたらきれいになるんですか?一度汚れたらその人は一生汚れたままなんですか?じゃ、差別してもいいんですか?」

違うと思った時の介入の速さ、展開の多様さ、言葉の的確さ。



東大生と自分の能力の差に落ち込む遥に対して

「言ってごらんなさい。あなたと東大生のどこに、あなたのいう絶対的能力格差があるのか。」
「みんな、私の知らないことを知っている」
「そんなのただの物知りじゃないの。能力なんかじゃない。他は?」
「みんな、私が一を言うだけで十を理解する。」
「そんなの私と同じ学問をしているからかもしれないじゃない。通じやすいというだけのことかもしれない。他は?」
「私はバカなのに、大学の講師なんてできるの?落ちた大学なのに!」
「それは大学にあなたの能力を18歳の時点で見抜く力がなかったのよ。大学に力がなかったの、あなたに能力がないわけじゃない!」

18歳で自分の位置を確定してしまう偏差値教育。
それは能力の位置決定として内面化される。
教授は決して「18歳の時はバカだった」とは言わなかった。
教授は私のどうしようもない能力コンプレックスと、東大という予想外の権威がそれに拍車をかけて悪循環する構図をものの見事につるし上げた。
教授は最後まで「能力に差はない」という立場を一歩も譲らなかった。

教授が私にしたことは、丁寧に、ひとつひとつ、私の中の固定観念を問いただし、思考を再構築させる作業だった。

教授は私にみごとに社会学を実践した。知の社会学ではなく、実践の社会学として訓練をつんだ者は、その研究を自己へと向けることができる。
その瞬間、暴力性は自己に牙をむく。
苦痛を伴わない社会学実践はない。私の学問の使い方というものを身をもって学んだ。

社会学の師として、
社会学の実践がその人柄にすっかり染み付いた1人の人間として、
遥に正面からぶつかり、社会学を実践した上野。
その誠実さと、圧倒的実力、影響力には感服する。

なんてカッコいい人間なんだろう。

私もこんな人間になりたい。


だからこそ、私は勉強したいと、し続けたいと思うのだ。

自分を守るために、
戦いに勝つために、
大切な人を守るために、
自身の枠を広げるために、
人に枠を押し付けないように、
そして
上野が遥にしたように、
目の前の人を枠から外し、立ち上がらせるために。


あなたは何のために勉強しますか?


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