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祈りの中に、こころみの中に

 「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」
 この祈りを、別の言葉で、信じるものによらず、別の場所で、異なる名の、あるいは名もなき、おおきな力に向けて、祈っている人で溢れているのが、わたしたちのいるこの世界だ。今日生まれるかもしれない人に向けて世界のことを教えるとしたら、この世界には様々なものを信じる人がいることを教えたい。そうしたことが時に困難な世界であるけれども、しかし必ず可能であるべきだという希望を、希求する心を教えたい。生まれたばかりの人のつややかな瞳、ただ命のかたまりであるがゆえのうつくしさを私たちは知っている。自然に顔が綻ぶもの、あかるさを感じるもの、それこそが失われてはならない平和だと、肉体という容れものが大きくなるにつれてどうしてわからなくなるのだろう。人として生きれば生きるほどに、生命たる者から遠ざかる。私たちは死んでしまうことを知っているから、殺すのだ。そして私たちは死んでしまうことを知っているから、殺さないことを選べる。この世界には、選ばれなかった選択の中に生きていた人々がいる。

 冒頭の一文はキリスト教における「主の祈り」の一文である。ここにある「こころみ」と「悪」は宗教的な解釈となり、神さまを忘れることや信じる心を挫く誘惑を指す。しかし誰かの祈りの中では、こころみや悪は国家となり、政治的権力になり、遠くの国の無関心であり、目の前にいる生きているひとりの人間となる。
 私は、私たちにとっての「こころみ」とはこのように「悪」の対象が散らばってしまうことだと思う。悪も人ならば祈るだろう。祈る対象も悪とするものも異なるけれど、祈るしかない私たちの小ささは同じだ。言うまでもなく、尊さも同じだ。「あなたも私も同じだ」そう言葉にすることには勇気が要るだろうか。違いを認め合い、尊重すべきであるのは個の性質であり、それらは弱くて脆い肉体と精神の上にある。祈っているのはあなたや私の源にある根源的な小ささではないだろうか。

 殺すな。殺してもいい人なんていない。何を選んだ人であっても、人に殺されてもいい人はひとりもいない。誰も、誰をも、殺すな。
 思考を持ち込まず、例外を作らないと心に決めるだけである。悪を測ろうとするからわからなくなる。私たちに悪は測れない。測ることは、できない。


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