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私たちは映し合い、響き合うために出会った

「自愛」という言葉がうんと奥行きのある言葉に思えてからというもの、どうして外側に目や耳があるのか、そんなことばかりが不思議だ。
愛すべき、否そうするしか他ない私の内側は目に見えず、声はあちらからもこちらからも聞こえてくるので聞きたい声以外は聞かないこともできる。もしも内側にも目や耳があれば、それきりのことに使える器官があれば私たちはこんなにも誰かや何かをこの世界に求めなくて済むだろう。

“(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色なのだよ)”

眼前に広がる景色のうつくしさ、醜さ、芽生えるものの傍らで常に失われているもの、音もなく刻一刻と損なわれてゆくもの。あなたが笑う、戸惑う、倒れ込んでいる、今もここで生きている。目が開かれているから見ざるを得ないのではなく、見るために目が開かれているのだと言うのなら、これらすべては私のものだと言ってもいいのか。私が見つめることの叶わない内奥の真実として虚偽の憚るこの世があり、聞こえるように話せない私の声として、あらゆる喧騒があり音楽がある。罵る大声があり、諦めに独り言ちる小さな声があり、あなたの名を呼ぶ声がある。
どこからどこまでが私にとっての現実なのか。
どこからどこまでを感受することが私に許されているのか。
目や耳が開いている限りは拡張され続けるこの現実の中で、感受することが許されている境目をいつも見失っている気がして立ち竦む。関心であれ感傷であれ礼節であれ「善悪」は常にこの線引きを守れない者に突きつけられる。
「あなたの姿が今確かに私には見えている、これが私の現実ではないのならその手で瞼を閉ざしてほしい」
そうしたことを告げる人間がいることがあなたにとっての現実であり、聞き届けたあなたがこの視界からいなくなるなら、それは私の現実だ。私はあなたの中の景色であり歌である。あなたは私の中の景色であり歌である。私たちは映し合い、響き合うために出会ったのだ。喩えもう二度と会うことがなくても、私たちはここから互いに手がかりを与えあった後の世界を生きる。

上で引用した宮沢賢治の「マグノリアの木」を2019年当時浜松で制作されていた熊谷隼人さん主催の場で朗読させてもらったことがある。振り返るとあのときの自分はせめて霧深い谷に落ちてしまわぬように諒安の傍らに立つことしかできなかった。それでもこの掛け合いを読むときはいつも思わず笑みがこぼれてしまうような安堵感があったことをよく覚えている。

“「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」”

私として、あなたとして、諒安ではない私が台詞を読む。この奥ゆかしさが今ならもっとよくわかる。二年経った今も黙読と朗読の狭間のような体感で読めることがうれしい。

“「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密林もこの河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や飢饉や疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。」”

この世界はあなたの目にどんな風に見えているだろうか。
戸惑いながらも今もまだここで目を開いているあなたの姿が見えているこの景色は、私にとって割り切ることの難しさを絶えず突きつけてくるものでありながら、愛すべきものに違いないと心から思える。そう、そうするしかないと思えるのだ。間違いながら、それでも目を開いている。姿を見せてここにいる。そこにいるあなたの目にもわかるように言葉にだってなってみせる。あなたの現実に生きるあなたが私の唯一無二の手がかりなのだとこんなにもよくわかるから、今もまだここで愛することを選べるのだ。

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