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想像すること

他人に腹を立てているときはだいたい想像力のなさにがっかりしているときのように思う。
「こちらの身にもなってくれよ」
わたしが言う。あなたが言う。あのひとが言う。そのひとが言う。このひとも言わないだけで思っているだろう。そんな想像をする。ニュースの中のひとに。電車で立ち並んだ見知らぬひとに。
「そんなこと想像したことなかった」
その言葉はなんてさびしいのだろう。ひとつの現実を間において、わたしとあなたが別の星にいるかのように聞こえてしまう。返す言葉がわかりあえる共通言語なのかどうか心配になって、なにも言えなくなる。もう、それ以上の想像はしない。想像をさせない。
たとえばふたりともが想像をしていたとして、いつもうまくいくわけではない。だけれど、もういちど想像しようとする力はやさしさからしか生まれない。一緒に話すとき、歩くとき、ひとりで読むとき、読まれるとき、ひとりで背負われるとき、背負うとき、こちらからあちら、あちらからこちら、頭のなかは行ったり来たりしている。その連続のなかで知る。誰に耳打ちされなくたってわかる。誰の身にもなれないということ。現実の目の前に立つわたしにしか、あなたにしかわからないことがある。想像力はなにかを負かしたりしないという当たり前のこと。これは武器じゃないんだ。いくつもの世界を、起こり得る現実を、脆い心をつくりだすこれは、武器ではない。

むつかしい顔して読んでいるでしょう。わたしは、そんな想像をする。あなたは、わたしがどんな顔して書いているか、想像してくれるかな。

想像力で身を守ろうとすることは、自分を傷つける架空の他人を身の内に棲まわすことだ。こわくて想像しているのに、もっとこわくなって、想像が止められない。ね。どうしたらいいのか、わからないこともある。日々が、時間が、昔もらった手紙が、祝えなかった誕生日が、なんてことない力で、そうだ、波が寄せてくるみたいにゆっくりと変えてゆくだろう。

想像すること。わたしはどうにか、やさしさに使いたい。ひとへ差し出すやさしさに使いたい。


『観光記』(2020)収録


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