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青を祝する まえがき

書店で立ち読みして、これは読み返すものだとわかったから購入した。これまで旦さんの文章はメールでのやりとりの中でしか知らなかった。知らなかったことが書かれているから本を買ったのだろうか。確かにそこに書かれていたことはほとんどすべて知らないことだった。2017年からはじまった歩みが2019年冬に至るまで自分は知らなかった。2022年冬、本屋の隅で「こんなに“本当”が読めてしまっていいのだろうか」と思った。それは『USO』という本に収まっている上に「私と嘘」という題まで付いているというのに。


2019年冬、『舟』の感想をメールでいただき、2021年5月に開店した自由港書店の店頭で詩集を取り扱っていただけることとなり、初めてお店を訪れたのは2021年夏の頃。旦さんの懇切丁寧な対応に対して自分はいつも最低限のことしかできていない気がする。京都から須磨海浜公園へ行くときのなんともいえない遠さに似たものを旦さんに対してもずっと感じていた。(実際調べてみたら京都駅から乗り換えを1回、1時間ほどで着く。そう、こういう思い込みも含めて。)このようなことをたった二度会っただけの人間に言われたくはないと思うが、弁解させてもらうとそれは大事に読んでくださっているからこその遠さだとも感じていた。本を介するとき、そこには私の想像が及ばないような「大事な距離感」が生じることがある。
十年ちょっと本を作っている中でいろんな人が見せてくれたその事実におっかなびっくり向き合い、時に翻弄されながら、ようやくまっすぐ受け留めることができるようになった。読んでいる人と本、読んでいる人と私、そのつながり。読んでいる人が胸に抱く像がどれだけ私の実体とかけ離れていても、それはその人の大事なものだ。誰にも奪う権利はない。この手から離れたものから誰かの大事な思い入れが生まれることが何より有り難く、肉体を持った生活者としての私自身は生きていくことを励まされていた。本と私はイコールではない。だからこそ読んでいる人と本の関係性を私は守りたい。

私は旦さんの書く言葉でいうところの「死なない自殺」を2020年『観光記』を出す直前にしたのだと思う。私も家族が、絶対に失われない家が欲しかった。この一文でさえ、今も自力では書けない。旦さんが書いた本当と嘘は、私にとって言葉のための「呼び水」だった。書けていないままのものを書かねばならない。家族が欲しいと願うことを手放して、その願いから離れて遥かやっと歩き着いたというのに、私は今結婚しようとしている。その現実にまだ混乱している上に、いろんな方向に勝手に負い目を感じている。立場や視点をすごい速さで切り替えることを促されている今、それでも言葉を返したい。返したくて、今年の2月に旦さんに会いに行ったのだ。あなたの言葉を読んだ人として、展示をさせてほしいと。

旦さんの「私と嘘」が読めてよかった。このように生きてきたことを言葉でひらく難しさや、書きながら時を進めてゆくことのくるしさ、そして書いたからといって読まれることが必ずしも楽で楽しいものではないであろうことも背負って、最後まで書いてくれたこと、読ませてくれたことに感謝している。共感という言葉だけでは間に合わないこれはおそらく勇気なんだろう。書けなさの前に座らせるものがこのようにあたたかなものであるとき、言葉を信じて書こうと強く思うのだ。

目下制作中の詩集『青を撫ぜる』のテーマは「こども、おとな、かぞく、何者でもないわたしたちへ」とした。直接的には書いてこなかった対象に詩の言葉で向き合ってみている。自由港書店を訪れるさまざまなお客さま、そして小さなお客さまのことを思いながら。それでも結局は子ども向けの本にはならないのだけれど、「子ども」という存在を透明にはせず、最後まで取り組みたいと思う。

家族が欲しいと願うことを手放したとき、抱えていた虚しさも悲しさもぜんぶ「人と一緒に生きること」のさまざまなかたちに託そうと決めた。それが家族じゃなくても、家じゃなくても、ひとりきりにはなれないこの世界にて、あなたと一緒に生きていけると気づいたから。

青くて まあるくて やわらかくて いびつな
それはさみしさ
それはうずくまるこども
それはつややかなくだもの
それはだれにもさわれないたましい
ぼくの
それはまだあたたかい

「青を撫ぜる」(詩集『青を撫ぜる』収録)



ルドルフ・シュタイナーが人智学の視点を織り交ぜながら語った色彩論の中で“光を通して見た闇は青い”と言った。“青は人間を、内的に安楽にする”とも。暗やみに、悲しみに、色を与えられるだろうか。青を祝し、青を撫ぜてみようと思う。


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