天国

 四歳になった娘と八月の終わりに二人だけで鳥取に帰省した。
 二十世紀梨記念館(通称なしっこ館)と燕趙園という、二十世紀の終わりに地元に出現した、地元民が行かない「大型」施設にはじめて行った。前者は郷土特産の梨を祀る施設のようなもの、後者は日本最大の中国式庭園らしい。
 どちらも東京に出てくる頃にできたから、世紀が変わっても一度も行ったことがなかった。
 最後の日、燕趙園に併設されたプールでひとしきり遊び疲れた娘が、鳥取空港へと向かう車内でまどろむ準備をしている。外は東京の曇天の先に開いた晴天の夏。前の座席では一段と老いて見える父が揺れるハンドルを握り、横に母がちょこんと座っている。小中学生の頃、ゴールデンウィークが来るたびに父が家族旅行を計画し、中国近畿地方を回った。年に一度の大型イベント。運転する父の横で、渋滞で不機嫌になる母を背に、りんごの写真が表紙の大きな地図本を開いて家族の現在地と行方を伝える。そこが僕の特等席だった。
 日本海が一段と美しく見下ろせる高台にさしかかるとき、ふと父が、「大きくなったら何になりたいの?」と、孫に訊きそうなことを娘に尋ねる。
 「え〜っとねぇ……おひめさま」
 アナにアリエルにラプンツェル。ディズニーの物語を娘は描いている。そして消え入りそうな声でこうつぶやいた。
 「……でも、パパとママがじいじとばあばになるのはいや〜だ……」
 はっとして、時間が止まる。

 「最近よく天国のことを考える。それを想像しようとしている」という文で始まるレベッカ・ブラウンの短編集『The End of Youth』のことをまた思い出す。そこで描かれる「天国」はエデンや来世ではない。まだ若々しかったころの両親の姿だ。雲ひとつない夏空の下、大きな農園で作業している母。Tシャツにジーンズ、日焼けした肌で、熟したトマトや花々に囲まれている。日の出前の冷気の中、広い湿原を歩く父。コーデュロイの帽子にポケットのたくさん付いたベスト、清々しい汗をかいて、狩った鳥を家に持ち帰ろうとしている。今は二人ともこの世にはいない。
 「天国のことをよく考えるのは、両親が死んでからずっと、二人のことを想像できる場所がどこかにあればいいなと思っていたから。私が若かったころと同じように見れたらと思う」と閉じられる、短い文章(いま手元に柴田元幸訳が見当たらないので間違っているかもしれない)。
 母と父が若かったとき、私も若かった。
 私が若かったとき、母と父も若かった。
 若かったとき、朝六時前には二階の床づてに朝食の支度をする母の物音が聞こえ、しばらくして新聞を広げる父の声が響いてきた。そのくぐもった音の感じは思い出せるのに、毎日のことだったのに、そのころの父母の姿はよく思い出せない。けれど、あのときが自分にとっての「天国」だったように思う。変わらなければずっと天国だったのに。四十歳を目前にして若さの終わりを宣告された気持ちでいる僕は、ますますそこから遠ざかる。
 いま横にいる娘は天国にいるのだろう。けれど、その終わりをどこか予感もしている。
 そんな一言が胸に迫ってきた。まだそんなに若いのだから、どうか天国には気づかないでいてほしい。

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