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同郷に自分を重ね合わせる話題について

もしかしたらこんな人生だったかもしれない、と自分を重ねて想像できる話題はエモい。同級生や友人の噂話が基本的に面白いのも、ここで道が分かれたけれど、もしかしたら自分も…という「あったかもしれない道や選択肢」を想起させてくるからだと思う。
学校に限らず、場所や会社、考え方や流行なども含め、同郷のひとたちの行末を知ると、いずれもそんな感傷的な味わいがある。

しかし注意したいのは、この手の話は「同郷以外のひと」にとっては面白くも何ともないことが往々にしてある(と思えてならない)。だから何? 何が言いたいの? とイラっとさせがちな話題でもある。
なのに、この手の話題は同郷以外のひとへの何らかのアピールとしても選ばれがちだ。自分は本来こんなものじゃない、もっと楽しいことをやれたはずだ……そんな劣等感を払拭するように、熱っぽく語られる話題でもある。

同郷以外の人間に、こういった話題を持ち出すときはよく注意したほうがいいと思う。その話題が成り立つ背景が「同郷に自分を重ね合わせるエモさ」なら、話すことで自分だけが気持ちよくなっていないかと。
何かに自分を重ね合わせる快楽は、理性を失わせるほど強まることがある。

推しに自分を重ね合わせると

推しへの想いについても、それに近い要素があると思う。推しがいる幸せは、その推しを選んだ自分を誇らしく思える喜びとつながっているだろうから。
推しを共有していないひとに語っても理解されないかもしれないし、ときにイラっとさせるかもしれない。

また逆に聞き手としてイラっとしたり、なぜそんな話題を選ぶのか意図が分からないことがあったら、そういった可能性も考えてみることにしている。
重ね合わせる気持ちよさがそのひとを支えているかもしれない。それは推しかもしれないし、同郷の活躍かもしれない。
本人は自覚していないから、なぜ?と訊いても不服そうで特に理由は返ってこない。それでいいのだ。生きていく上で、支えがあるのはいいことだから。イラっとしながら話を聞くのも、仲良い関係ならきっとお互いさまだ。

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