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日記。それは、面倒だけれど、生きた証となるもの

日記というものを語ると聞いて

「日記、ねぇ……」

倉下先生のブロガームック本企画のお題が「日記」に決まった時、そんなことをぼんやりと思いながら眺めていました。
そうしたら、色々と思うところをぶちまけたくなって、参加を決めた次第です。

だって、ねぇ。きっとみんなポジティブな見解出すでしょう? 日記に対しては。一人ぐらいそうじゃないのが居たっていいでしょう?

……はい。こちらでは初めまして。水撫月 怜香(みなづき れいか)と申します。
超絶亀更新&長文なブログ「Luminous Tale.」を運営しております。長文メルマガ毎日配信中、noteもたまに投稿しています。

ちなみに実態は自由気ままに生きているアラサー宝塚ファンです。全力で応援している贔屓がいます。美しすぎてつらい(褒め言葉)。好きすぎてこんな記事をこっそり書いたりしていました。

「日記=面倒くさい」

さて、「日記」と言われて真っ先に思ったことと言えば、やはりこれです。

“めんどくせぇ”

いきなり言葉が乱暴ですが、要は「面倒くさいもの」というわけです。だって三日坊主の代名詞じゃないですか。典型的なね。

ええ私だって三日坊主でしたよ日記なんて。続くわけないじゃない。何度か日記書こうとして数日ほど書いてみるものの、すぐにやめてしまう。そんなのばかりでした。

「面倒くさいもの」「続かないもの」
それが、私にとっての「日記」です。ネガティブイメージの方が強いですね。どうせすぐやめるのにやる必要あるの、とか思っていました。

(さらに言えば、アナログで書くと他人に見られそうで怖い、というのもありましたね。見る人なんていないと言われても全く信じられずにいました)

何故「面倒くさい」のか

それにしても、何故続かないのでしょう。日記というものは。

まあ「面倒だから」なのですが、だったら何がどう面倒なのか。何か理由があるはずです。

思いついたのは、「わざわざ時間を設けて、一日の出来事を思い出して書かなければならないから」ということでした。

その日何があったのかを書くのが、一般的に言うところの「日記」でしょう。となると、一日の終わりないし翌朝に時間を確保して、その日何があったかを思い出して書き記すことになります。

しかし、人間の記憶とは曖昧なものです。長時間しっかり記憶に残っていることもあれば、短時間しか経っていないのにもう記憶が残っていないなんてこともあります。

前者はともかく、後者に該当してしまっている出来事をいちいち思い出そうとするのは、それだけでも大変面倒に感じてしまうわけです。
だって残ってもない記憶を引っ張り出そうとするわけですから。

だから、特に記憶に残るような出来事のなかった場合など、「書くことがない」という日が出てきます。

そんな時は、書きたくても書くことがありません。その日の日記は白紙になるか、せいぜい数行ほど当たり障りのないことを書いて終わりです。

そして、これが日記を書くモチベーションを下げてしまうわけです。
「頑張って思い出そうとしたのに何も思い出せず、何も書けなかった」というのが白日の下に晒されてしまう。何かを書くべき日記が白紙状態というのは、どうしてもストレスになるものです。

それに、日記を書くためだけにわざわざ時間を設けるというのも、結構意志力が必要になったりします。
特に夜に書く場合。やっと寝られると思った時に日記を書こうだなんて、それだけで面倒に感じてしまうのは私だけでしょうか。

何はともあれ、以上のような理由で私は日記に対して「面倒くさい」というネガティブイメージを強く持っているわけです。

「日記=生きた証となるログ」

とはいえ、「日記=面倒くさい」というだけでは発展性がなさそうなので、もう少し別の見方をしてみます。今度はちょっとポジティブに。

もうひとつ、私にとって「日記」とは「生きた証となるログ」でもあります。

というのも、私が日記を書くとき、単に出来事を羅列するだけではなく、「その日何を思ったか」を記録に残す、という意識が強くあります。「何があって、何を思ったか」を大切にしたいと思うのです。

しかしこの意識こそが、前述の「日記=面倒くさい」に繋がっているようにも感じるのです。

「思ったこと」なんていうのは、その場で残さない限りすぐに忘れ去ってしまいます。そんなものを一日の終わりや翌日になって思い出せという方が無理なのです。
いくら日記を開いても、思い出せないのなら書きようがありませんからね。

でも、だからといってそのまま忘れ去ってしまうのは惜しい。
だって、私がその日を生きた証となるのですから。「何があって、何を思ったか」というログは。

いつか気が向いて読み返した時、当時の自分をリアルに追体験することができる。感情を、想いを、甦らせてくれる。
そういう力が、「何があって、何を思ったか」のログとして綴られた文章の中には詰まっています。

ゆえに、やはり、残したくはあるのです。日記として。できれば、忘れてしまわないうちに。

意識しなくても出来上がる「日記」がほしい

だからどういうものが理想かというと、「その時その時で書き残した“何があって、何を思ったか”のログが、そのまま日記になる」という状態なんですね。

起こったこと、思ったことをリアルタイムに書き残した「ログ」が、そのまま記録になる。何気なく書き留めたことが、そのまま日記として残る。
一日の終わりには、その日の自分の「何があって、何を思ったか」が日記としてアーカイブされている。わざわざ意識的に書き出したりするまでもなく。

そういうのが、私にとっては理想的な「日記」なのです。
手間暇かけず、ただその場で思ったことを書き留めるだけでいつの間にか毎日しっかりと記録に残していけるような、そんな日記が。

それって「日記」と呼べるのか、という意見もあるでしょう。それはただの「ログ」であるに過ぎないのでは、と。

でも、「日記」って「日々の記録」の略なのではないか、と思うのです。だったら、単なる毎日のログの積み重ねであっても、十分に「日記」と言えるはずです。

毎日日記帳を開き手書きで書き込んでいくのも「日記」でしょうけれど、思ったことをデジタルツールを使ってちまちまと書き留めていくことで積み上がったログも、また「日記」であると思いたいです。

TwitterとひとりSlackによる「日記」

ちなみに私の場合、「思ったこと」は差し障りのない限りTwitterに投稿しています。観劇感想なども、公開しても構わないものはすべてTwitter(の専用鍵アカ)に投稿するようにしています。

私にとっては、ツイートこそが「何を思ったか」のログなんですよね。

今はひとりSlackに、自分の持っているアカウントのツイートを全て流すようにしています。
そうすれば日々の自分の「何があって、何を思ったか」が勝手にひとりSlackに集まります。意識的に書こうとせずとも、日々ツイートをするだけで、ひとりSlackが「日記」としてログを保管しておいてくれるわけです。

Twitterに投稿するだけではいずれ流れ去ってしまいますが、Slackにも流すようにしておけば、あとでひとつの出来事に対する関連ツイートをスレッド化してまとめたり、日付ごとにEvernoteにアーカイブしたりできます。検索もしやすいですしね。

さらに公開できないような内容のものは、ひとりSlackに直接投稿すれば人目につきません。Twitterに投稿するのは憚られる内容も、こうすれば誰の目にも触れることなく記録に残すことができます。ひとりSlackならツイート感覚で投稿できますし。

公開できる内容はTwitterに、公開できない内容はひとりSlackに。それらが自動的に集約されて、ひとりSlackに「日記」として積み上がっていく

ちょっと一般的ではないかもですけど、今の私にとっての「日記」はこれですね。
なんせいつものようにツイートするだけで日記が出来上がっていくのですから、自然と続いています。続けるという意識すら要らないのがいい。

まあ、日記にもいろんな形があっていいんじゃないかな、と個人的には思っています。生きた証が残れば、それでいいのですから。

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