AYAME dayori Vol. 7 編集後記
AYAME dayori vol. 7 《GUIGUNON:Sonata VI in E Major Op. 3-6 》
今回は18世紀中ごろにヴェルサイユ、パリで活躍したヴァイオリニスト、ジャン=ピエール・ギニョン(1702-74)の作品を取り上げました。J.- M. ルクレールのライヴァル、あるいはG. P. テレマンの《パリ四重奏曲》を演奏した人物として知られている人物ですが、実際にはどのような音楽家だったのでしょうか?
1702年、ギニョンはイタリア・トリノの商人の家に生まれると、ルクレールの師でもあった名教師G. -B. ソミスの元でヴァイオリンを学びました。(ルクレールは1722年にトリノに長期滞在していた為、2人はもしかしたらすでに同地で出会っていたかもしれません。)
その後フランスに移住したギニョンは、1725年、新設されたコンセール・スピリチュエルの演奏会でパリ・デビューを果たします。1730年、国王夫妻の御前演奏で賞賛を得ると、これをきっかけに1733年には「国王の常任音楽家 -Ordinaire de la musique du roy-」となり、その後30年以上にわたって王家の音楽家として勤めました。
ギニョンの名声を高めるエピソードとして知られているのが、ルクレールとの宮廷楽団の監督の座をめぐる激しい覇権争いです。1730年代、同じく国王につかえていたルクレールとギニョンは「王のオーケストラの監督」の席を巡って4年間にわたる闘争を繰り広げます。そして1737年に「毎月交互にリーダー勤める」という事で和解するかに見えたものの、その一か月後、ルクレールがギニョンの次席として演奏することを断固拒否。ルクレールは解雇に追い込まれてパリを去り、オランダのハーグにてオラニエ公妃に仕えることとなります。一方のギニョンは、1762年に引退するまでこの地位にとどまったのでした。
このほかにも、大音楽家モンドンヴィルとの皇太子の教師職をめぐる裁判沙汰、同業者との金銭トラブルでの訴訟問題など揉め事も多く、宮廷音楽界における策略家としての印象も否めません。しかし彼の演奏は非常に軽やかで優美なものだったようです。
また、ギニョンの作品は、超一流の作曲家でもあったルクレールの珠玉の作品群にこそ見劣りするものの、当時のフランス趣味らしい洗練された作品も多く、彼の「ヴァイオリンソナタ集」「2つのヴァイオリンの為のソナタ集」などの作品集の中からは、いくつもの上質な音楽作品を見出すことができます。
今回取り上げた《2つのヴァイオリン、フルートとヴァイオリン、あるいは様々な2つの同種楽器の為のソナタ集 作品3》は、当時同種楽器によるデュオやトリオの編成が一般的であったフランスにおいて正式に「フルートとヴァイオリン」のデュオが認められている珍しい曲集です。(第2集、第3集にあたる作品7と作品8は「2つのヴァイオリンの為の~」と楽器が限定されています。)
演奏した《ソナタ 第6番 ホ長調》(#4つ!)は奏者2人のお気に入りの作品で、フラゴナールの絵画を思わせるような牧歌的な第1楽章、綿密に書かれたフーガの第2楽章、2声部が戯れるように絡み合う第3楽章から構成されています。
ルクレールとはまた一味違った、遊び心あふれるイタリア風フランス様式の作品をお楽しみいただければ幸いです。
AYAME アンサンブル・バロック(鳥生 真理絵)
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