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AYAME便りVol.4 編集後記ーべリオとブリュッセル音楽院ー

 こんにちは、いつもAYAME便りをご視聴くださり有難うございます。 
 第4回は趣向を変えて、19世紀中頃に作曲されたベルギー・ロマン派の作品を歴史的な楽器を用いて演奏いたしました。「べリオのバレエの情景」というとヴァイオリンの教育課程でもよく取り上げられるため、懐かしく思われる方もいらっしゃるかもしれません。べリオは後述のようにAYAMEのメンバーが研鑽を積んだブリュッセル王立音楽院とも関わりの深い人物であることから、現在のブリュッセルと音楽院周辺の様子もお伝えできればと思い、映像を含む動画としました。普段私達が演奏しているギャラント様式の軽やかな音楽とはまた趣の異なる作品ではありますが、お楽しみいただければ幸いです。

―べリオとベルギーのヴァイオリン奏法―
 作曲者のシャルル=オーギュスト・べリオ(1802-1870)は19世紀中頃に活躍したベルギー・ルーヴェン出身のヴァイオリニスト、作曲家です。彼は19歳の時にヴィオッティの勧めで、当時クロイツァーやロードと共にパリ音楽院でアカデミックな音楽教育を推進していたP. バイヨーのクラスに入り数か月間師事すると、その後まもなく、パリでデビューし大成功を収めました。またネーデルランド王のウィリアム一世の室内ヴァイオリン奏者を務めたほか、ロンドン等のヨーロッパの大都市でソリストとしてツアーを行っています。ベルギーがネーデルランド王国から独立して間もない1833年にはブリュッセルに移り住み、1843年以降はブリュッセル王立音楽院において、主席教授として後進の指導にあたり、ヴュータンをはじめ、優れたヴァイオリニストを多く育てました。
 ヴァイオリン演奏史において、べリオは、パガニーニの華やかな技巧と、バイヨー、ロードらパリの軽やかなスタイル融合し、かつ、音楽院のアカデミックな制約から離れ、よりロマンティックな独自のヴァイオリン奏法を確立し、その後の音楽院での教育を通して「フランコ・ベルジャン楽派」の基礎を築いた重要な人物として知られています。ブリュッセル王立音楽院は19世紀中ごろからフランス、ベルギーにおけるヴァイオリン教育の中心地となり、フランコ・ベルジャンの流派はべリオの弟子ヴュータンから20世紀初頭のイザイ、そしてグリュミオーに至るまで脈々と続きました。肘の低いリラックスした弓使いや、多様なシェイプを用いた音のニュアンスのつけ方、和声感、フランス語に基づく音のデクラメーション、自在なアゴーギグといった19世紀から続くフランコ・ベルジャン奏法の特徴は、今なおベルギーのヴァイオリン奏法に見て取る事ができます。

 べリオの作品はその構成力の弱さからか、現在では教育目的でばかり演奏されているのですが、彼のメロディーには情感にとんだ美しいものが多く、それらはべリオが教則本において示している様々な表現方法(ポルタメント、ヴィブラートを用いた細やかなニュアンス、デクラメーション)を演奏に取り入れる事によって、驚くほど活き活きと動きだします。今回、あらためて、古楽的な視点からのべリオの作品へのアプローチに多くの可能性を感じました。今後演奏される機会が増えていけばと思います。

―ブリュッセル王立音楽院とレジョンス通り―
 ところで、ブリュッセルの音楽院はベルギー王国が建国する以前の1813年に、パリのコンセルヴァトワールの最初の分校として設立されました。19世紀後半以降は、レジョンス通りという、ロワイヨー広場と19世紀建築の傑作といわれる裁判所(パレ・ドゥ・ジュスティス)を結ぶブリュッセルの目抜き通りに位置し、その右手には美しいプティ・サブロン公園と、ノートルダム・デュ・サブロン教会があります。現在も使用されている音楽院の本館は、1872年に行われたレジョンス通りの第2次開発に伴い、ジャン=ピエール・クルスナールによって1872年から1876年にかけて建設されたもので、この開発により、隣接するサブロン広場は、現在のようにレジョンス通りを挟んでグラン・サブロンとプティ・サブロンに分断された形となりました。
 残念ながら建物の状態は悪く、数年前から修復作業が行われていますが、内部は現在も学びの場として、そして大ホールはブリュッセルの音楽シーンの場として使用されています。19世紀後半の面影を色濃く残すサブロン周辺の映像と、べリオの音楽から19世紀のブリュッセルの情景に想いを馳せてみていただければ嬉しく思います。

AYAMEアンサンブル・バロック 鳥生真理絵



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