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Tono & Limsインク 「アルデバラン」【小説 インク物語】

 朱く燃える、牡牛の瞳。
 小さな赤い光を指さして彼女が口にしたのは、舌がからまりそうな星の名だった。
「アルデ、バラン?」
「そう、アルデバラン。知らない? 冬のダイヤモンドの一角」
 白い吐息がほどけて霧散した先に広がるのは、キンと冷えて研ぎ澄まされた冬の星空。見上げて、ああ、きれいだな――とは思う。だがそれだけだ。星の名前を思い出すことなんてない。
「まず、冬のダイヤモンドって初めて聞いた。夏の大三角なら、昔習ったような気がするけど」
「じゃあ覚えよう。知らないの、もったいないよ! おおいぬ座のシリウスにオリオン座のリゲル、こいぬ座のプロキオンとか、大御所ぞろいなんだよ、冬のダイヤモンドって」
「大御所って……芸能人じゃないんだから」
「芸能人どころじゃないよ。星座には、何百年何千年って歴史があるんだから、星のほうが大御所レベルはずっと上だよ」
「大御所レベルって……」
 今を時めく芸能人にすら、興味を持てないのに。
 遥か頭の上、地球のうんと外でちかちか光っているだけの星の名前を覚えることに、どんな意味があるんだろう? 素直にそう尋ねてみたら、
「え? 楽しいからに決まってるじゃん」
 真顔で返された。
「星の名前、星座の形を覚えれば覚えるほど、今までただの夜空でしかなかったものに、暗号が浮かび上がるんだよ。『読める……読めるぞ!』っていう興奮がねえ、おなかの底からふつふつ湧き上がってくる」
「そういうもの?」
「そういうもの。わくわくだよ? ……あとはね、君が星に興味を持ってくれたなら、単純にあたしがうれしい」
 シリウス、リゲル、プロキオンにアルデバラン。
「……星の名前って、まるで呪文だ」
「でしょ? 覚えたなら覚えただけ、楽しくなる呪文だよ! もうそこから先はプラネタリウムとか星座の神話とか、次々沼が待っているわけですよ。覚悟したまえよ」
 覚えたなら覚えただけ、楽しくなる呪文――そんなもの、悪徳学習教材の広告にプリントされたアイキャッチみたいだ。
 なのに、ばかばかしいと笑い飛ばす気になれないのは、本当に楽しそうに、嬉しそうに、星の名前を唱え続ける笑顔がすぐとなりにあるからだ。
 笑顔はプライスレスとは、よく言ったものだと思う。
 遥か高みの冬のダイヤモンドには手が届かなくても、星の呪文を覚えたなら、まちがいなく、彼女は満面の笑みではしゃぐだろう。

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