泥をつかんで立ち上がれ
はじめに
東京での芸人時代に書き留めていたショートエッセイの断片。あのときは、とにかくお金がなく、家賃2万円のアパートに住んでいた。借金400万。でも、胸にはいつも希望が高鳴り、いつか絶対に売れると信じていた。現在48歳。プロレタリア美術家/芸人
自転車
時々、チリンチリンを無駄に鳴らすジジイを見かける。むしろ、チリンチリンを鳴らしたいがために自転車に跨がっているのかもしれない。僕が心配するのは、普段からそんなにチリンチリンを軽々しく鳴らしていたら、「いざ」という時、どうするつもりなのか。その時はもう、「デンジャラス!!」と大声を張り上げるしかあるまい。冬の暖で言えば、11月に石油ストーブを出してしまったら、極寒の1月や2月はどうして過ごすつもりなのか、という話である。
洗濯機
僕は一人暮らしを始めた頃から、洗濯機にうるさい。むしろ、洗濯機には厳しい人間でありたい。その仕上がり具合で一日のテンションが決まると言っても過言ではない。そんな洗濯機に一言、申したい。
「洗い」の時間、短くね?
だいたい7分くらいよ、あなた。もう少し長く洗うべきじゃないかしら。「すすぎ」の際は、ちゃんとすすいでいるようだけど、「洗い」におけるチカラの入れ具合がどうも信用できない。洗濯機の稼働中は、できるだけ立ち会うようにしているが、明らかに「洗い」の時間が短い。「すすぎ」さえ、ちゃんとしておけばいいだろうという考え方が僕には許せない。失敗や挫折、悲しみや頑固な汚れは、十分な「洗い」でこそ、落とせるものなのよ。バカにしないで。
チャップリンは言った。
「人生に必要なのは、勇気と想像力と少しのお金だ」僕も言おう。
「人生に必要なのは、勇気と想像力と少しのお金と洗いの時間が長い洗濯機だ」
紫陽花
「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」
そう詠んだのは、正岡子規。紫陽花の色の変化にかけて、人の心の移ろいやすさを風刺した句である。紫陽花は、その土壌の質によって、色が違う。酸性の土なら、水色。アルカリ性なら、赤みが強く出る。ちなみに実家の裏庭に咲く紫陽花は、ワインレッドのような色をしているので、ことごとくアルカリ性の土ということだ。もし水色にしたければ、その土壌を酸性に変える必要がある。劇的に、それも急進的に酸性の土壌へと転換するには、恥を偲んで、毎日オシッコを放尿し続けるしかないと思う。たとえ、隣近所から奇異な目で見られようとも、決してへこたれることなく、我が実家の紫陽花を「水色」に変えてみせたい。認知症の母親はきっと喜んでくれるだろう。
伸びしろ
オッサンの伸びしろを考える時、僕はどこからか夕暮れの潮騒の音が聞こえてくる。言うなれば、悲哀である。刻苦勉励のもがきである。おそらく、このままでは風呂場の排水溝がオッサンの隠れミノになっているだろう。しかし、オッサンの頑張り次第では、街角のパン屋さんで、クロワッサンに似た「クロオッサン」が発売され大ヒットし、車のニッサンが「オッサン」になっている可能性もあるのだ。世の中のオッサンはまだまだ本気を出していない。むしろ、どこかですでにあきらめている。日本の元気のなさの一つは、そんなオッサンにあるんじゃないか。
口角
口角がよく切れる。気付いた時にはもう口の端がピリっと切れている。地味に痛い。乾燥のせいか、胃腸が悪いせいか、僕の口角はチャック式なのか、理由は未だわからない。
バスタオル理論
バスタオルは、素材が大切だ。何かの記念品のようなヨレヨレの綿100%のやつがいい。水をよく吸うからだ。それに比べ、バラの刺繍が入ったような、分厚い高級バスタオルほど水を弾く。シャワーを浴びた後の爽快さは、最後のバスタオリングで決まると言ってよい。そして、できるなら白色のバスタオルがいい。白は、自身の健康意識をアップさせる効果があるという。そんな僕のバスタオリーに共感してくれる人はたくさんいるはず。
男の甲斐性
昭和生まれの男性なら、そんな言葉を聞いて連想するのは、肉体労働である。とにかく、肉体を酷使して汗を流し、ガツガツ働いていると何だか崇高な気持ちになる。しかしながら、世の女性から見ると、その「稼ぎ方」ではなく、その「稼ぎ高」によって甲斐性を推し量るようなところがある。でも、男にとっては稼ぎ方こそ重要なのだ。純粋な汗をどれだけ流したか、その汗の質によって自分の甲斐性を決める傾向があるように思う。極端な話、粉塵まみれの解体工事や泥まみれのドカタといった肉体を酷使するようなバイトをして貰う給料というのは、格別にうれしい。「稼いだぞぉぉー!!」と海に向かって叫びたくなる。そういう感覚はずっと大切にしたいと思うのである。
邪魔な傘
雨が止んだ時の傘ほど、邪魔なものはない。いっそうのこと、どこかに捨てて帰ろうかと思うほど邪魔である。けれど、人がいなくなった道では、無駄にクルクル回してしまう。「どこまで速く回せるか」なんて、ささやかな勝負を挑んでいる自分がいたりする。あのクルクルは、40歳を過ぎても未だ快感で、さっきまで邪魔だった傘がオモチャになってることが多い。この癖は、小学生の時から変わってない気もするし、少年のアホさとは自分にどうでもいい勝負を挑んでしまうところである。「もしこれがゴミ箱に入らなかったらオレは死ぬ!」とか、そんなレベル。でも、あの少年だった頃のアホさを忘れないかぎり、人生は愉快だ。
グランマ・モーゼス
創造性というものが年齢に関係ないということは、多くの芸術家によって証明されている。例えば、世界的に有名なグランマ・モーゼス。夫亡き後、70歳を過ぎてから絵を描き始め、101歳で亡くなるまで、あれだけの心温まる優しい絵を数多く残した。人生捨てたもんじゃない。だから、人生こんなものだとか、失敗するのがイヤだとか、恥をかきたくないとか、そんなこと言うなよ。だって、君は今までも失敗だらけの人生だったじゃないか。今さら何を言ってるんだ、バーカ。
ちぎれたときは
電車。車両のいちばん端に座った時、窓から見える外の連結部分を眺めるのが好きだ。アコーディオンのような蛇腹のビニール製らしき連結部分。ボロボロに錆びた鉄の連結棒と軋む音。ずっと眺めていると、そのうち、ちぎれるんじゃないかと不安になってくる。そのときは、さいあく端に座っている人たちと協力して、「繋ぎ止める」しかないのかな、と覚悟したりする。そんな起こりえない可能性を想像するのが、僕にはいい意味で緊張感を与えてくれる。だから今日も車両のいちばん端に座る。
トイレの神様
飲食店のバイトでトイレ掃除をさせられる度に、今までどれだけの店舗のトイレを掃除してきただろうと思いにふける。「わしゃ、トイレマスターか」と思わず独りごちてしまう。たぶんトイレ掃除は誰にも負けない自信がある。さらに言えば、他店のトイレに入れば、水回りの配管の汚れ具合でいつもちゃんと掃除しているか否かがわかる。実は「トイレの神様」って、僕のことなんじゃないか。
妖精
この世には、妖精がいる。森の妖精。水の妖精。花の妖精。排水溝の妖精(小さいオッサンである場合が多い) そんな妖精たちは、いつも無邪気だ。不安や憤りなんてものはない。あるのは、困難を吹き飛ばしてしまうだけの陽気さである。もしかしたら、人間の苦悩のほとんどは、想像の中にあるだけで、案外、笑って吹き飛ばせるものが多いかもしれない。
上履き時代
小中学校時代、誰もが履いて過ごした上履き。むしろ、強制的に履かされた学校指定メーカーの上履き。つま先部分を青色に縁取られた、あのダサい上履き。そんな上履きの裏は、決まってギザギザだ。ギザギザにしておけば、「滑らない」という発想が安易である。その上履きでウ◯コ的なモノを踏もうものなら、ギザギザゆえに立ち往生するではないか。残酷である。卑劣である。もはや地雷の発想である。あともう一つ。履いた時の足首のスカスカ感がずっと許せなかった。だから、体育の時間に心の中で「しっかりしろ!」と叱り飛ばすのが常だった。でも、そんな不自由の中にこそ、本当の自由へと至る道があるんじゃないかと最近思うのである。
階段
昔から階段でよく躓く。長い階段であればあるほど、その確率はぐんと上がる。靴の爪先が引っかかって前に倒れ込むパターンなのだけれど、毎回それをごまかそうとして、志村けんみたいになる。たぶん、脚の長さが違うのだ。絶対そうだ、それしか考えられない。でも、昇っているうちは何の心配もいらないと思っていて、恐れるのは、それをやめた時だ。これからも躓く度に、僕は爪を立てて立ち上がってみせる。
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