ー ゲンズブールの亡霊 ー
試写室より愛をこめて「ジェーンとシャルロット」
女の敵は女だ。
物心ついたころからそう思っている。女が嫌いだという話ではない、女は油断ならない、女は面倒くさい、というステレオタイプな話を実録以外にも映画や文学や噂話含め女として体験してきた私自身がそう感じているだけだ。実際、好きな男が絡めば女はあっさり女友達を捨てるものだ。[女の敵は女]説のきっかけは、ボーイフレンドに浮気された友人がなぜか浮気相手を責め敵視するというシチュエーションを目の当たりにした時だった。いやいや悪いのは男だろう?と思ったがどうやらそうではないのだ。女が浮気した時は女が悪くて、男が浮気しても女が悪くなる、いやはやなにか染色体に呪いでも刻まれているのか、種の保存を思えばむしろ一夫多妻でもいいのかもしれない、今ならばそれこそが国富論ではないか。アダム・スミスの著作には書かれなかったこの問題について、「恋愛の性質、そして結婚という制度における国家の生産性と収益について」みたいな第六章を書てみるのもいいかもしれない。
ときに、いま日本では「母と娘」という永遠の課題について暗雲が立ち込めているという。娘を所有物だと思う母親と、自分の不幸の種は母親だと思う娘、この母娘関係にまつわる書籍が現在相当数本屋の棚を占めているという、父と息子ではない、母と娘に限ってなのだ、やはり女の敵は女、なのだろうか。
そんな”母と娘”という関係の一つがドキュメンタリー映画となってまもなく公開される、「ジェーンとシャルロット」だ。
時代のアイコンとなった母ジェーン・バーキンを、同じく時代のアイコンとなった娘シャルロット・ゲンズブールが2018年からカメラを回し制作したこの作品は全編が苦悩で満ちている。
ジェーン・バーキンには三人の娘がいるが全員父親が違う。シャルロットは二人目の夫セルジュとの間に授かったが、まだ思春期だったシャルロットを置いてジェーンは家を出て、三人めの夫ジャック・ドワイヨンと一女を設けている。ドキュメンタリー映画の制作、という最大のエクスキューズを得たシャルロットは、これまで口に出せななかったことを容赦なくジェーンに投げかける。
欧米人、ことフランス人は日本人よりもはっきりと明確に自己の意見をもち、どんなことも言葉にし、強く生き、「愛」を言語化している人たちだと思っていた私がこの作品で垣間みた二人の関係性は、「女と女」として、また、一人の男を通じてこの世に繋がり存在している「妻と娘」として、愛し、忌み、どこまでいってもわかりあえることはない不器用な女と女でしかないのだ。ボーボワールは「 人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と説いたが、母になるも娘になるも同様なのではないだろうか。努めて歩み寄らなければその関係性は維持できないものなのだろう。
インスタのキラキラした写真とは真逆の、シワもシミも隠さず、血管が浮き出て浮腫んだ指にも容赦なくカメラは向けられる。赤裸々に語られる言葉に互いが浮いたり沈んだりしながらも。言語化されてゆくことで満たされることもあれば壊れていくものもある、そんなやりとりをあなたは目撃することになる。そして語れば語るほど見えてくるのはセルジュ・ゲンズブールの重たい影、そんな風に感じられた作品でした。
ノンフィクションのように作られたこの作品はひょっとしたらすべてフィクションなのかもしれない、自分の人生の脚本は自分で書くしかないのだから私たちはフィクションを生きているともいえるのだ。
C'est la vie.
※パリ7区の閑静な住宅街ヴェルヌイユ通り(rue de Verneuil)にあるセルジュ・ゲンズブールが住んでいた家がこの秋から美術館として公開されるのですが、その部屋の様子が本編で見られるところはお宝ですよ(もう予約がいっぱいで全然見られません)
ゆかりさん、このような機会をくださってありがとうございました。
これ最後まで読んだ人すごすぎるww 神
アヤコフスキー@札幌。ディレクター・デザイナー。Salon de Ayakovskyやってます。クロエとモワレの下僕。なるようになる。リトルプレス「北海道と京都とその界隈」で連載中 http://switch-off-on.co.jp