勝間和代十夜 第六夜

(初出「ぼんやり上手」2009年6月16日 http://d.hatena.ne.jp/ayakomiyamoto/20090616)


「森へ行ってはいけませんよ。森にはカツマカズヨが出ますからね」と、母が言う。自分はもう大きいので、カツマカズヨなんて少しも怖くないが、黙って聞いている。「お父さまが無事お戻りになるまでに、何かあったら困りますからね」母はそう付け加えた。

窓からは遠くに森が見える。今日のような冷え切った日の晩、森の方からときおり「ウィン…ウィン…」と不気味な音が響いてくる。村の人間に言わせれば、それは森の奥深くでカツマカズヨが啼いているからなのである。けれども、カツマカズヨの姿を見た者はまだ誰もいなかった。

月に一度、伯父が訪ねてくる。今日がその日だった。

女子供だけで家を守るのは大変でしょう、あなたはよくやってくれていますよ。伯父はそう母に声を掛け、ミカンや米などが入ったダンボール箱を玄関先に置く。自分にはきまって五百円の小遣いをくれる。

「伯父さまにお小遣いをいただいてよかったわね。それで遊んでいらっしゃい」伯父をもてなすために台所に立った母が、背を向けたままそう言った。伯父が笑いながら黙って頷く。誰にはっきり言われたわけでもないが、こうなると夕暮れ時まで家に戻ることはできなかった。

ズボンのポケットに小遣いをねじ込み、ジャンパーをはおって駆け出していく。広場に差し掛かると、そこに村の子どもたちが五、六人でたむろしていた。自分の姿を見ると、次々と石つぶてを投げつけてくる。「やい、父なし子」「お前の母さん、いまごろ伯父さんと何してるのかな」

石つぶてを投げ返すと、あっという間に子どもたちに囲まれ、順に殴られた。ポケットの五百円を巻き上げると、「弱虫の子はしょせん弱虫だな」と笑いながら子どもたちは商店のほうへ向かっていった。

立ち上がり、痛む頬を押さえながら歩いた。どこにも行く場所はないが、夕暮れまで家に帰ることもできない。あてどなく歩き続けると、いつの間にか森の入り口まで来ていた。一瞬引き返そうかと思ったが、「弱虫」という子どもたちの声がよみがえる。自分はもう十二になる。カツマカズヨは実在しないし、こんな森も怖くない。そう思って、森の中へと入っていった。

森は思ったより明るかった。何が怖いものか。ホッとした自分は枯葉の匂いのする空気を胸いっぱいに吸い込み、拾った木の枝で茂みをなぎ払いながら森の中へと進んでいった。茂みを村の子どもたちに見たてて、木の鞭をふるうのは爽快だった。夢中になって枝をふるっているうちに、いつしか子どもたちの顔は伯父の顔に変わっていた。

気が付くと、森は暗くなっていた。あわてて振り返るが、自分がどこから来たのか分からない。知らないうちに森の奥深くまで進んでいたようだった。冷たい風がざわざわと木を揺らす。

するとどこからともなく、ウィン…ウィン…という音が響いてくる。あまりの恐ろしさに思わず目をつぶった。ウィン…ウィン…ウィン…ウィン……だんだん音が近づいてくる。いよいよきつく目を閉じる。落ち着け、カツマカズヨなんて本当にいるわけがない。そう考える。これは木の幹が風に吹かれて音をたてているだけだ。三つだ、三つ数えたら目を開けろ。

ひとつ、だんだん音が遠ざかっていく。

ふたつ、すっかり音が消えてしまう。

みっつ、目を開けようとしたその刹那、自分は知った。目の前にカツマカズヨがいることを。もう森を出ることも、母に会えることもないだろう。そう観念して、ゆっくりと目を開き、その姿を見た。

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