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PNMJ かけだし

汁(じる)の店の開店は6時。

誰かの1日の始まりに、よし!と思えるきっかけになりたいだろう?

じいちゃんはそう言った。

自分が朝早く店の準備をすることは、想像していたより、嫌ではなかった。

朝日が上がる前に身体を動かすことに慣れると

人より時間を余分にもらっているような、

人より綺麗な空気を余分に吸っているような、

幸せな錯覚を手に入れた。

自転車でじいちゃんより一足先に

店に向かう道は、自分だけの道に見えた。

じいちゃんの店のメニューは2種類。

近い と 遠い だ。

近いは野菜ジュース。

近くの畑、基本的にはうちの畑で採れた野菜や

仲良くしている農家さんから仕入れた野菜の

ミックスジュースだ。

近いこと。

じいちゃんは、それは何にも変え難いと言う。

野菜に体力があり、信頼もある。

なんなら、種から知っているからなと言う。

近いには、じいちゃんのプライドが詰まっている。

にこちゃんの愛も詰まっているしね。

近いは。

野菜の旬や採れた量で、味も色も変わる。

そんな不確かなメニューでありながら、

じいちゃんの近いを飲みに毎朝来る人もいる。

今日の近いに使用されている野菜を紹介する

お品書きを書くのは、俺の仕事だ。

下手でも丁寧に。

じいちゃんはいつも、なかなか味わいのある字だと褒めてくれる。

俺の店には、うまいもんしかないからな。

じいちゃん、そういうとこ好きよ。

「近いを一杯!!」おはようとオーダーと小銭。

毎日決まった時間に現れる、30代ぐらいの男性だ。スーツを着ているからサラリーマンかな。

同時に差し出す様は、この店が彼のルーティンだという証。

濁りのないグラスに注がれた、少しとろりと

した液体を、自分の身体に流し込んでいく。

喉仏をみながら、今日も頑張って!と声には

出さずにエールを送る。

「ああ、今日もうまい!ありがとう、ごちそうさま!」

グラスを置き、片手をちょっとあげて、笑顔を見せてくれる。

ありがとうございました! 頭を下げながら
自分も笑顔になっていることに気づく。

朝のお客さんは、大抵飲み終わると必ず、

「ありがとう!行ってきます!」と言った。

俺が言う前に必ずお礼を言われてしまい、

小さい頃、徒競走のピストルに出遅れた

スタートを思い出す。

本当なら、俺はカウンターの向こう側で

改札に走り出す方にいなければならなかった。

そんな風に、気持ちを寄り道させていたら

お客さんの背中はもう改札に向かっている。

「ありがとうございました!いってらっしゃい!」

口から飛び出した言葉は、追い付けたかな。

いつも出遅れていたな。

いつも誰かの背中を見ていたな。


遠いは、果物のジュースだ。

扱う果物を、じいちゃんは遠くからきた親戚扱いをしている。

育てた人達の顔と仕事ぶりがわかる人からしか

仕入れをしないと決めていた。

毎回、果物が届くたびに

「おつかれさん。調子はどうだ?」と話しかけている。

遠くから来てくれた労いと感謝を伝えると、

果物はポテンシャルを存分に発揮するんだと

いうのが、じいちゃんの持論。

ここ、試験でまーす。とじいちゃんはおどける。

ノートではなく心に書き留める。

遠いは、やはり女性に人気がある。

遠いも、その日の仕入れの果物で味がかわる。

今日の遠いのお品書きを見て、

じゃあ、シングルスで!と言う人もいる。

推しの果物一択でいきたい。わかるわかる。

シングルスとかダブルスは、じいちゃんがある年のオリンピックで、女子卓球の選手の活躍に熱を上げてできたメニューだ。

お客さんは常連さんが多くて、シンプルなメニューから、多少の脱線は融通を効かせている。


じいちゃんは、一見いい加減のように見えるが

ジュースの時は真剣で、全ての秘伝はノートに

認めていた。

店に出るようになり、暇な時間には

じいちゃんは、どんどん俺に作らせた。

俺は、ノートを見ながらジュースを作った。

忠実に量りではかり、ミキサーに入れる。

ちなみに、じいちゃんは手が量りだった。

野菜や果物のコンディションで微調整もしていた。

ノートの通りにやっても、じいちゃんの味にならない。

練習を繰り返して、お腹がちゃぽちゃぽすることはしょっちゅうだった。

じいちゃんはメニューを増やした。

見習いだ。

俺の作るジュースがメニューに加わり、

正規メニューの半額で提供することになった。


見習いの近いを一杯!そんなオーダーが続くと

自分でメニューを増やしたにも関わらず、

じいちゃんが奥で不貞腐れていた。

そのうちに、女性のお客さんが

「見習いの遠いにしようかな」

と、俺ににっこりすることが3回続くと、完全にむくれた。

俺は嬉しいのと忙しいのに加えて、じいちゃんの
機嫌取りにも邁進する目まぐるしい日々を送っていた。

うちに帰り、にこちゃんの作ってくれたご飯を
食べて、風呂に入るともう眠くなるという毎日だった。

しばらくして。

俺のジュースの名前は、 駆け出し になった。

値段は正規メニューの3分の2だ。

俺のジュースを認めてくれたのか?

それとも値上げでこの快進撃を止めたいのか?は

じいちゃんの心の話。

見て習うところからは、一歩走り出せたかな。

#3話
#れおさん
#かなでさん



お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。