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燃えて消えたそのあとに

もう20年近く前の話だ。

実家が全焼した。原因は漏電だった。

当時、父と母は勤務中で留守だった。

妹はすでに結婚し、出産を数ヶ月後に控えていた。

誰もいないところで出火し全て燃えた。


火災が発生する前日、私達は実家から自宅に戻っていた。 

賑やかな長女夫婦を無事に見送り、やれやれと
息をついた翌日だった。


私達は、20代の後半を走り始めた頃だった。

長男は保育園、次男はまだ1歳か2歳だった。


実家の前には一軒、幼なじみの家があり


両隣、後ろに学生アパートがあった。


駅からごく近い立地で、建築物は密集していた。


その日、私は準夜勤の勤務を終えて


自宅に戻ると居間には電気がついていた。


時間は23時前で、普段はみんなが休んでいた。


しかし、その夜居間から電気の光が漏れていた。


義父も義母も夫も神妙な顔で起きて並んで座っていた。


落ち着いてきいてほしい。埼玉の家が火事で燃えた。お父さんもお母さんも無事だし、近隣の人も
みんな無事だから大丈夫。

夕方連絡がきたが、今、向こうに行っても泊まるところもないし、何もすることはないから一応報告であって、私達が来る必要はない。とお父さんは話していた。
おだんごに知らせれば動揺すると思い、あえて知らせなかった。
明日、職場に連絡してしばらく休みをもらうのがいいと思う。必要だと思うものを準備してから2人で向かいなさい。子供達は、私たちが面倒をみるから大丈夫だよ。


義母が語ったのは、要約するとそんな内容だった。


えっ?の後は、妙に落ち着いていた。
泣き出すことも気持ちを乱すこともない私に、家族は少し腑に落ちないような複雑な表情をしていた。

本当に驚いた時には、感情がすぐに泡立つようにはならないのだなと感じた。指先がひんやりするような感情のこわばりは、冷静とよく似ていた。

翌日、義父母は多すぎる見舞金と、布団を2組新調して持たせてくれた。


高速道路を走る時、時々、夫が私の手の上に
手を置いてくれた。

あまり多くは話さなかったが、結婚して、この人が隣にいて、本当によかったなと思った。

車内では、ゆずのアルバムが流れていた。

その中でも、青 という曲を聴きながら

車窓から流れる景色に目を向ける自分を

サイドミラーで見た時に

もう少し悲しそうにした方がいいんじゃないか。

そんなことを思っていた。

到着して、父が当時勤めていた勤務先に顔を

出した時、父が泣き崩れた。


来るなって言っただろう。何で来たんだ!と


高揚し、怒りながら嗚咽した父を忘れられない。


ああ、お父さんも泣くんだな、そう思った。


肩をさすることも慰めることもできず、


立ち尽くす私たち夫婦がそのあとどんな風に


動き、何をしたのかはもう曖昧だ。


父の喪失や消耗に比べると、母は気丈だった。


何というか、この時に、私の家族は結局


この人が軸だとまざまざと突きつけられた。

いつも、父に見下されるようにバカにされても

ひらりひらりと受け流していた母の真の強さは

このあと深く私に刻みつけられることになる。


実家はものの見事になくなっていた。


そこだけが浮き上がるように、何もなかった。


燻くさく、黒く白く。本当に ない。


実家がないということは。


泊まるところがないということ。

妹の夫の実家は私の実家からさほど遠くないところにあった。


結婚から年月はたっていないにも関わらず妹の義父母がすぐに声をかけてくれて、父母はそこに身を寄せていた。


夫は必要なものを父の職場に借りたスペースに運び、その日1日車を駆使して様々な用事を父と片付け、夕方私を置いて戻った。


きっと今考えても、心配ばかりが募り、帰り道は辛かっただろうなと思いを馳せる。


私も妹の義父母の家に寄せてもらった。
父は、その日から職場の事務所に泊まり、近くのアパートを借りる算段をしていた。


妹の義父母が本当に親切に、心を寄せてくださったことを今でも思い出す。


翌日、銀行の手続きやら、片付けやら、火事だと聞いて駆けつけてくださった方にご挨拶をし、集まりすぎた衣類や日用品を仕分けした。


妹の義父と抱えきれない衣類をリサイクルショップに持って行ったりした。

せっかくのご好意もサイズが合わなかったり、
そもそも保管場所がなく、どうしたものかと
思案していた時に、妹の義父母はすぐにリサイクルショップに行こうと言ってくれた。


なんだか申し訳ないと話す私に、


みんな力になりたいと持ってきたもので、手を煩わせているなんて知ったら、それこそ切ないから
これが一番いいと思うよ!と明るくおっしゃってくださった。


ああ。寄り添う時にこんな風に明るく迷いなく
不安を払拭してもらえたら、力が湧くなあと
しみじみと心に響いた。


その日の夕方。母が父のいない時間に
耳打ちした。


ねえ、一緒に現場に行こうと。


妹は出産を控え、両親は火事場のそこは見せたくないと言い、母の連れになれるのは私1人だった。


父は、私や母にもあまり行かせたくないようだった。母は、それを充分わかりつつ私をこっそり誘ったのだ。


なんで?というと、へそくりの500円貯金が落ちているかもしれないし、お父さんに内緒で買った高いパックも、燃え残っているかも。という。


この時、ああ、大好きだなあ。と思った。


この人が、例えばお母さんじゃなくても大好きだし、自分のお母さんでラッキーだなあとそう思ったことを一生忘れない。


2人でこっそり行った現場には、何もなかった。


この辺に鏡台があった。ここらへんに貯金箱。


何もない場所に、我が家を描き出し、足で掘る。


足元を見ながら足を動かしながら、母が言った。


野次馬がたくさんいてさ、私達が半分狂ったみたいに泣いたり吠えたりしているのを見ていてさ、
夜中、鎮火した頃に、ほり返しに来るんだって。
だから、やっぱりないよね。なんか悔しいよね。


びっくりした。世の中にはそんな人がいるのか。


人の不幸をそんな風に横目で見て、夜中に私の実家を掘り返す人を想像した。


へー、と思い、信じられないねと言った。


私と母はシャベルで突きながら、燃えない500円をしばらく探したが結局1枚も見当たらなかった。


あの500円玉貯金は何十万円分もあったと、絶対実際より多めに話す母。


そして、更にいいパックだったんだよねーと畳み掛ける母を慰め、からかいながら帰る道のりは、2人とも笑っていた。

数日。顔を顰めて俯いていた。


悲しく。切なく。ご迷惑をかけてと頭を下げる。


火事を出したことを謝罪し、お見舞いに感謝し


自分の振る舞いに失礼がないかだけを注意していた。


あの夕暮れの帰り道。煤で汚れた借り物の長靴で


歩いたあの道の私と母は、本物だったと思う。


絶望に思える時間の中にも、染まりきれない。


喪失の中に一筋の光。


私も母も不幸に飽きやすい体質だ。


どんな時でも、どこにいても、命があったから。


私達には明日がある。

3日後、父と母は近所の築年数の経過したアパートを借りた。

神田川みたい!と母ははしゃいだ。

父に怒られるので、いないところではしゃいだ。


住めるように体裁が整い、私は帰りの新幹線に乗った。


私の実家は全焼した。

しかしこの数日、両親が築き上げた人間関係を

垣間見た。

手を差し伸べ、寄り添い、引き上げよう、押し上げようとしてくれる沢山の人。

燃えて消えたそのあとに。

火事場泥棒に盗まれないものにこそ価値がある。

私はあの喪失で、父と母への敬意を深めた。

新幹線の車内で私は乗客の1人になった。

実家が燃えた可哀想な長女。

駆けつけて手伝うしっかりものの長女。

から、解放された。

何も知らない、誰も知らないその車内で

涙がでたこと。

本当というのはつくづくタイミングが悪い。







お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。