あの日、あの時、あの言葉
実際の友達に、文学フリマという催しに参加して自費出版をすることにしました。という報告をしました。
実際の友達とは、高校の時の友達です。
仲間と言った方が近しいかな。同じ部活で時間を過ごしたメンバーや、10代の多感な時期にたまたま一つの教室に居合わせた同級生達です。
報告して気づいたのは、私がしていることはキテレツだな。ということでした。
noteの世界にいると、自費出版も文学フリマもそう突飛なこととは感じません。
書いてきてそれを纏めたいとか、カタチにしたいとか、そういう願望についての一定の理解も共感も得やすいように思います。
ただですね、書くことが日常でない人からみたらですよ。
素人の名もなき中年女性が、自分の特別ではない日常を綴った文章をいくつも集合させて、その果てにお金を出して、本にしたかと思ったら
値段をつけて売るとは。
なんたる暴挙。自己承認欲求の値上がりストップ高。みたいな感じですよ。私、私!の挙手が、天井にタッチ!みたいな。
感じに受け取れるよね、やばいな、私。となりました。
一気に怖くなりました。まず、買ってね。ということも、来てね。ということも。
言葉にして伝えてから気づくという、感受性の出遅れにほとほと呆れますが、仕方ありません、こんな感じで47年、私をやってます。
ちなみに、noteで出会った友達に対して、こういう謙虚な気持ちというか、臆する気持ちは抱きません。
背景を知られているので、委ねることができます。
経過を見ていてくれた人に対しては、甘えしかなくて、ただただ結果として作り上げたものを一緒に喜んでもらいたいという気持ちです。
キテレツ仲間ということもありますね。(いろいろ失礼)
というわけで、実際の友達にカミングアウトして、しばらく悶々としました。
唐突に、わけのわからないことを言って戸惑わせたよね、返事のしようがないよね。と申し訳ないような気持ちになりました。
すると、ぽつぽつと返事がきました。
行ってみるよ!とかおめでとう!とか。
それは、そう言わざるをえないように私が仕向けてしまったかな?と思うよりも先に、私を安心させる力強いおめでとうでした。
ありがとうと心から言える、心のこもったおめでとうでした。
みんなに私から宣伝するよと、かってでてくれた友達が
いつか物書きになるって思っていたよ。と言ってくれました。
エセだけどね。と私が答えると
エセじゃないよ。文章で人を動かしたらもうエセじゃないよ。と言ってくれました。
魔法をかけられたよ。と言ってくれた友達がいました。
私の方が彼女の魔法のおかげで、書くことを続けてきました。
noteを始めた頃に、彼女はおだんごの名前いり木製ボールペンをプレゼントしてくれました。
私に書く場所を提供してくれて、ずっとずっと私の書くの背骨を支えてくれた人でした。
何も言わずにnoteアカウントをつくり、読んでくれた友達もいました。
ただただスキを送り続けてくれた友達も。
特養で仕事をしている時、看護主任からお年寄りのベッドサイドで言われたことがあります。
「おだんごさんは、いつか必ず介護エッセイ書くといいわよ。それで、出版しちゃったりしたら、私、買うわよ!文章上手だし面白いから」
ご本人は覚えていないかもしれませんが、あの日のベッドサイドでかけられたあの言葉を忘れたことはありません。
物書きになると思っていたよ。
誰かの中で、私がそうあれたことが今の私に繋がっていることを、本当に嬉しく思っています。
あの日、あの時、あの言葉。
出会いの場所がどこであったとしても、
今、自分がしていることや挑戦することに
自分自身が臆する気持ちは薄まりました。
突き詰めれば、出会って繋がっているみんなに感謝と敬意しかありません。
そこを大切に、本を届けていきたいと思います。
あの日、あの時、あの言葉。
振り返り思い返すと、あなたもあなたも。
私の書くを支えて、私の書くに生きています。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。