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野辺送りの帰り道

喪主の息子さんが
「女房に12年間、自宅で介護をして頂きました。」
と話したところで泣いた。隣の主任も鼻を啜った。12年に想いを馳せた。
私達が、故人と過ごしたのは1年半だった。

頂くって使うんだな。と思って泣いた。
そこに普段は決して口にしなかったであろう、
償いと感謝が滲んだ。

視線の先の奥様は、まっすぐ前を見ていた。

その前後の施設へのお礼の挨拶より、妻に向けた感謝の一言に、奥様の何かが報われたような気がして、涙が出た。

もちろん、それは他人の感傷だ。

奥様自身が、常にぶつかり合い、相性の合わない姑の介護を12年間続けた月日は、そんな簡単に癒されない。

それでもやはり、あの頂きましたは極上だった。

仕事柄、今までにも沢山の野辺送りに出向いた。

告別式を終え、斎場から、自宅から出発する
故人をお見送りするその機会は、私達、介護士の最後の仕事である。

厳密に言えば、仕事ではない。

強制もされないし、自由意思である。

しかし、私達はできるなら足を運ぶ。

最後に手を合わせ、頭を下げる。

心の中で声をかける。楽しかった思い出を
頭の中に映し出す。ぶつかった苦さも横切る。

謝ることもある。お礼を言うこともある。
そして、必ず願う。

どうか天国で幸せでありますように。

そして必ず、ありがとうございましたと
言う。それは好きな人にも苦手な人にも。
命を通して教わることはあまりあるからだ。

気の合わないお嫁さんに12年間介護をされ、
1年半を老人ホームで過ごしたその人は、享年99歳だった。

目が見えなかった。耳も遠かった。
しかし、卓越したユーモアを備えていた。

機転の効いた会話と口癖のありがとうと最高です!で、私達のハートをがっちり掴んでいた。

お風呂あがり、身体の状態を確認する。

耳元で、痒いところはありますか?と尋ねると必ずこう言う。

「わたしの体が地球としたらアメリカあたりが痒いです。」

わかりづらい。勘で、胸のあたりの赤みに薬を塗り、

「アメリカは薬を塗りました。ソ連やカナダはどうですか?」とまた大きな声で聞く。

「ソ連もお願いします。てか、世界中痒いです!」となり、結果、全身に薬を塗る。

食べることが大好きだった。餅やおにぎりが好きなのに、喉は細くなり、入れ歯が合わなくなり、歯茎で食事をしていた。

普段は粒のないお粥や、ペースト状のおかずを食べていたから、ご家族と相談して月に一度だけ、リクエストの好きなものを食べる日を作った。

おしるこ、白玉あんみつ、塩むすびなど、喜んで食べるときは、喉のギアがあがるのか、咀嚼の力が増すのか、ドクターの米倉涼子並みに失敗しなかった。

手紙を書くのが趣味だと聞いて、月に一度、枕元に行き、家族に手紙を作った。

私が気持ちを聞き取り、手紙にまとめる。

どんな時にも、誰に宛てても必ず出る言葉がある。

家族は仲良く、最も大切なのは和合です。

の一文だ。

和合。長い嫁姑の確執。家族のあれこれ。

薄れていく記憶と、流れていく情景に
ただ一つ浮き上がる、和合。

春から始めた手紙は9つの宛先に送られた。

私も、あの枕元で過ごした時間で、和合を
受け取った。

野辺送りの帰り道、良い言葉だけを発していたその人を思い出す。
おいしいです。うれしいです。大丈夫です。
ありがとうございます。最高です。

亡くなる5日前。

「もうごはんはいりません。」と言い
一切食事をやめた。そこからは、ほとんど口から何かを摂ることはなかった。

亡くなる日の昼間、お風呂に入り、また身体を地球に例えて、アメリカの痒みを訴えた。

お決まりのやりとりにみんなを笑わせて、その日の夜に旅立った。

あまりに潔く、振り返らず、笑いを一つ置き土産に、これ以上ない幕引きだった。

車の中で、ため息がでる。

あんな、ユニークな大先輩にもう会えないのか。

最後にみた、棺の中の穏やかな顔を思い出す。

あの顔こそが和合だったなと。

私は夜勤に向かう。
生きている人に向き合うのが、仕事だ。



お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。