分類しない自由がある

今、いろいろな感情とか性格とか出来事に
名前をつけるのが流行っているなと感じる。

何かで傷ついたとなれば、◯◯ハラスメント
とか、自分の性質はこういうアルファベットで表現される気質ですといった話をよく耳にしたり目にしたりする。

世の中がわかりやすい事を求めすぎていると
感じる。

カテゴリーに当てはめていくやり方で、共感を得たり、楽になる人も多いのだと思う。

しかし、私はそのことに違和感を感じている。

違和感を感じると言うことには勇気がいる。
もともとがあまのじゃくだし、でしゃばり
なので仕方がないが厄介な性格だと思う。

だからといって、人を無闇に傷つけたり攻撃しようなんて微塵も思ってはいない。
できるだけ、そのまま伝わるといいなと思いながら書いている。

もう少し自由でもよいのではないかと思うのだ。

カテゴリーにはめ込むことで、
見落としているものはないか?
自分を、他人を決めつけすぎてはいないか?
と思う。

私は3番目の息子が5歳の時に、心身の発育になんらかの問題があるのではないか?と助言を受けた。

専門家の見立てや検査による診断を希望せず、
家族の見立てでここまできたが、悩んだり苦しんだりして選んだ道を、よかったと思っている。


自分の今ある問題は、誰かと似通ったり、研究の末の結果に近いものかもしれない。

しかし、全く同じことなんてない。


全く同じでないのなら、その籠の中で説明されるものに甘えていてはいけないのではないか。
その籠の中に留まる必要はないのだ。
はみ出て、飛び出す自分をそのまま許して
あげてほしい。



先日三男が
「身体は食べるものでできているが、
心は自分の発する言葉でできているから、
なりたい自分は自分で作るんだ。」と言った。


どこかで聞いた言葉を受け売りで言っているのだろうとは思うが、私的にはいたく感動した。


本当にたまに凄くいいことを言うので
あなどれない。

なぜなら、息子はその通りの人間だからだ。

小学生の時、スキーと野球を両立するぞと言って2つやり遂げた。

中学生の時、生徒会長になるぞと言ってなった。

高校に入り、1年でレギュラーになってベンチに入るぞと言って、その夢を叶えた。

おまえには無理だ、力不足だと言われても
本人が1番本人を信じていた。


自分が発する言葉がなりたい自分を作る。

私はnoteでもその言葉を心の真ん中において
言葉を選んでいる。

いろいろな人がいてみんな違うからこそ。

わかりやすい指標や分類に頼らずに
目の前の人をまっすぐみたい。

出会い、触れ合い自分が感じるものからの情報を最優先して判断したい。

わかりやすいは、わかったとは違うのに、
見誤る。わかった気になる。だから怖い。


自分の直感と思考をいつも鍛えていたい。
苦手や辛いことの中にこそ、自分を羽ばたかせるものがある。

共有されるものや、共感されるものと
同じくらい自分の力を信じてほしいし、
それこそが、多様性ということでは考えている。







お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。