裁判傍聴 2012年 心斎橋無差別殺人事件 ③被害者の証人尋問

(裁判記録を忠実に記載いたしますので生々しい描写があります。)

被害者証人

丹まさきさん 被害者佐々木トシさんの長男

佐々木トシさんは北海道出身。
息子、丹まさきさんが3歳の時に離婚。
経済的理由からまさきさんを引き取ることが出来ずに丹さんは元夫の母親の養子として離れ離れになった。

知り合いの話では、佐々木さんはいつも息子の話ばかり。
「まさきはどうしてるかな。」

実の母として再会出来たのが10年前。

「本当の親子だけど、これからは本当に本当の親子になろうね。」
嬉しくてほぼ毎日電話で近況を交わした。

トシさんには孫を抱かせることもできた。

丹さん一家と地元の北海道 定山渓温泉に旅行したり、丹さんが大阪に来て、母子で京都旅行などをした。

法廷モニターに京都旅行の写真が映し出された。
金閣寺にて丹さんと並んで優しい笑顔の佐々木さん。

事件当日6月10日14時頃
大阪みなみ警察署から着信。
「お母さんが意識不明の重体です。すぐに来てください。」

出張で関東地方に居た丹さんは、わけもわからず大阪に向かった。
途中再び警察から電話があり、
「お亡くなりになりました。」と告げられる。

看取ることも叶わなかった。

ご遺体と面会。
致命傷となった首の傷が目に飛び込んできた。
「母さん、なした!?」
いつも優しい母さんの顔なのに、眉間に皺を寄せていた。
「悔しそうな苦しそうな顔でした。」と号泣される。
「顔に触ったら、尋常でないほど冷たくて、母さんは亡くなったことを突きつけられました。初めて母親の顔に触れたのがこんな機会だなんて。」

面会の後、佐々木さんの一人暮らしの住まいを訪ねた。

台所には、にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、カレールーが並んでいた。

前日、出張先の関東から、新幹線で大阪の佐々木さん宅で会う予定だった。
佐々木さんは「何か美味しいものを作っておくよ。お肉は大丸百貨店のが美味しいから。」と言っていた。

「自分のカレーのために、大丸に肉を買いに行こうとしてくれた、その途中だったのだと思います。」

南野浩二さん 被害者南野信吾さんの実父

南野信吾さんは昭和45年生まれ。
二歳年下の妹、両親との四人家族。

浩二さんにとって初めての子どもで、その誕生は本当に嬉しかった。

信吾さんはおもしろい子どもで、人気者。
小学生の頃も友達が沢山いた。

中学生の頃、バンド活動を始め、その魅力にのめり込む。

高校時代はアルバイトをしながら好きなバンドを続けた。

卒業したらプロを目指して上京したいと希望したが、
「社会を知る必要があるから仕事をしなさい。バンドは働きながら追いなさい。」
との父の言葉に従う。

周囲に慕われ、
「音楽なんてやめてサラリーマンになれ!」と、上司から可愛がられた。

何度も南野さんのライブを見に行った浩二さん。
「いやぁ。かっこよかったです。ボーカルでした。我が息子ながら本当にかっこよかった。」

平成8年 プロデビュー

その後音楽活動としてはプロデューサーに回り、妻子を得て東京で活躍。

父とは頻繁にメールや電話で連絡を取り合った。

最後のやり取りは事件数日前。
浩二さん「元気でやってるか。」
信吾さん 「元気です。心配しないで。」

2012年 6月10日

大阪で信吾さんがプロデュースしているアーティストのツアーがあり、そのライブには両親妹が観に行き、その後信吾さんと合流して家族四人で食事をする予定であった。

14時頃、浩二さん携帯に友人から着信
「大変なことが起きたで!信吾ちゃんが事件に巻き込まれたらしい!」

続いて、みなみ警察署から着信
「南野信吾さん、大阪市立総合医療センターに搬送されました。至急向かってください。」

大阪市立総合医療センターに問い合わせる。

浩二さん「南野信吾の父親です!担当の先生に代わってください!」

浩二さん「教えてください。」
医師「お亡くなりになりました。」

信吾さんの母親である妻と、信吾さんの妹、八重さんにどう伝えたらよいか。

信吾さんと妹の八重さんはみんなが羨ましがるほどの仲良しな兄妹であった。

アーティストとしての信吾さんの一番最初のファンが八重さん。

天王寺でのライブにもよく行っていた。

親子で大阪市立総合医療センターにて、ご遺体と面会。
「厳しかったですわ。
顔!首!胸!どこもかしこも!!
こんな残忍な痛めつけがあるんか!と!
妻は泣き叫んで言葉にならなかった。
娘は、兄ちゃん!兄ちゃん!兄ちゃん!と遺体にとりすがって泣きました。
(検察官に)涙を拭いてよろしいか?

あまりにも遺体がひどいので、これでは妻の友紀さん、三人の幼い孫に会わせられない。

元通りとまではいかなくても、なんとか綺麗にしてください、と医師に頭を下げました。」

「冷静さを保とうとしたが困難であった。

誰もいない壁が見えたので、そこへ走っていき、声をあげて泣いた。抑えられなかった。」
(傍聴席、裁判員すすり泣く)

検察官「事件の前と後で生活は変わりましたか?」
浩二さん「何もかもが変わりました。

私は家に篭りました。
誰にも会いたくない。

息子と最後の別れもできなかったこと。

体力もなくなりました。

自分を立て直そうと、公園や河川敷を歩いた。

木々を見ながら自分を落ち着けようとしたのに、突然息子のことで頭がいっぱいになり、
『信吾ーー!信吾ーー!』と叫びながら歩いた。
河川敷で野球をしている人や、そこらにいる人がびっくりしてこちらを見たが、抑えられませんでした。

妻は34キロまで痩せました。
毎食陰膳を備えています。
お父さん、ご飯減れへんなぁ。
信吾ちゃんと食べてるんやろか。
信吾は死んでからも忙しいなあ。
東京行ったり、また大阪来たり。
お父さん、犯人は死刑やよな。と。

何回も燃え上がるように苦しくなり、夫婦で泣きました。

代われるものなら!
代われるものなら!
代われるものなら!」

検察官「妹さんの生活はどうですか?」

浩二さん「妹ですか。もっと厳しいです。

八重は、美容師なのにハサミが握れないんです。
殺人犯が使った刃と重なるんですわ。

ずっと店を休んでおりました。

もうお店を畳もうと思っていたけれど、
兄ちゃんなら
『頑張らなあかん』と言うだろう。
そう聞こえた。
今は少しずつ仕事を再開しています。」

南野友紀さん 被害者南野信吾さんの妻

(提供写真 事件の二ヶ月前に友紀さんが撮影。信吾さんとお子さん3人がぎゅうぎゅうになって笑顔でお風呂につかっている)
「みんなの笑顔が好きな写真で 素敵な表情だったので提出しました。」

信吾さんとは平成16年7月7日入籍。

検察官「何故結婚しようと思ったのですか?」
友紀さん「私のことをずっと好きでいてくれたからです。」
検察官「信吾さんはどんな男性でしたか?」
友紀さん「とても優しくて、子ども思いの父親でした。」

最後に会ったのが事件前日の6月9日。
早朝6時にみんなで玄関で見送った。
「気をつけてね。いってらっしゃい。」とかけた言葉に、信吾さんが一瞬振り返って家に戻るような素振りをした。
そんなことは今までなかったので
「あの時、私が何かを察して止めていればと後悔しています。」
何度も言葉に詰まり、涙ながらに話される。

検察官「大丈夫ですか?」
友紀さん「大丈夫です。すみません。」
「私は彼の作る曲が好きでした。でも照れくさくて、一度もそう思っていることを伝えたことがなかった。あなたの曲が好きだと伝えていればよかったです。」

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