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文体練習

文体練習、という名前の本を見たのは、盛岡の青山町にある中年のための憩いの場を目指す(と店主からお聞きした気がしているのだが捏造だったらすみません)カフェ、Donnyhaにて。ダニーハ、という不思議に安らぐ柔らかな音は、ダニーハザウェイの名前からだったのは間違いがないはず。

スチールの事務用書棚の間に配置されたKOKUYOのソファイスの黒にグレーの混じったペールブルーの壁、タプナードのホットサンド、スペイン風オムレツに苦味のバランスが気持ちにジャストなカフェコンレチェ。音楽はレコードでかけられているその、本当にゆるゆるとした心待ちになる安寧の場所で、ジャンル?なにそれ意味あるの?てくらいものすごい趣味幅の蔵書の中から手に取ったのが出会いで。

そういう小説タイトルかと思ったら、ほんとうに文体を練習する本だった。その名の通り同じ内容の端的な事実を、メモだの隠喩だの語中音消失だのアナグラムだの様々な角度からの文体にしており、意識の変革として刺激になるものの、ちょっといいお値段なこれをなぜ買おうと思ったのかは聞きたいと思いつつ、いくと毎度ゆるみ過ぎて忘れるため、いまだ聞けてはいない。この本が書かれた経緯もいつか知りたいと思いながら、いまだ手付かず。


出身を問われ文学部の出だ、というと文学に造詣がありそうと思われるし自身も他者に対しては勿論そういう印象で接していただろうけど、私が大学で取った講義でピュアに“文学“を考えたとカウントできるものは必須外国語と「理由なき殺人〜大菩薩峠をめぐって」くらいだった記憶しかないので、文学史どころか文法などは義務教育レベルでしかない。でも義務教育でこれ(文体練習という発想)があったなら私にとってはよかっただろうになと感じた。

コミュニケーション“技術”の中にはある種、カメレオンではないが外的な装いパターンを環境に応じ調整させるという側面も含んでいる気がするから、生きやすくなる人が増える気がするんだよ、と。私を筆頭に。


大学に行こうと思ったのは、行動心理学が学びたかったからだった。

その頃までずっと、そもそも"普通”だとか”みんな”と言う一律の基準の存在がよくわからない、という社会と自分との間にギャップがある状態で過ごしていた。行動から心理を規程できる?補正できる?みたいな要素が学問としてあるらしいというふんわりぼんやりした(本当はもっと色々なことを考えていたのだろうけれど、もう遠すぎて曖昧模糊として思い出せないな。)ことを知りたいなと思った。

その一番行きたいと思っていた大学は落ち、別の土地の大学に行き、今の私が形作られ今考えていることはその流れでしか起こり得なかったと思うとそれもまた貴重ですね。

まぁそんなこんなで文章も文体も練習したことがないままに、社会にで(というのは不思議な表現だなぁ。社会、生まれ落ちたと瞬間からすでに社会にコミットさせられているのに。)就職し、何年かし、生まれて初めて記述について学んだときには衝撃だった。

“記述について"といっても文学的な小説的な物語的なものの書き方ではなく、専門職の記録に関する講義と演習をみっちりとです。その中で先生が冒頭言われたことは

「記録が書けないというのは、書き方以前にまず頭が整理されていないということ。」


!!


技術ではなく、脳内の話だった!


私の脳内は常に連想ゲームと脳内会話を何人かの登場人物が入り乱れている状態であり、その状態で何かを書いたらそれはその混乱のダダ漏れでしかない。

人との会話でも同じことではあるものの、会話は目の前の人が存在するためある程度は軌道修正される。でも記録物なんてストッパーのいない永遠作業にできる。事実を残す逐語・会議の全会話全部記入とか、恐怖のテープ起こしとか、遠い目になる。

「すべきは

・目的に応じた記録をすること。(公私問わず)
・仕事上のものなら尚更、何を為そうと実施しているか定義を明確にし、目的に合致しているかチェックすること。
subject、object、assessment、planを意識して書き分けること。   表出、事実、評価査定解釈、計画。
planの根拠がassessmentに明示されていること。
assessmentの根拠にsubject、objectが明示されていること。

それだけ」と。

その、それだけ、の訓練が吐くほど脳を使った。


癖の修正というのは、すぐ楽な方へと戻ろうとする慣性の法則との戦いだ。歯とか姿勢とかの矯正とかと同じ痛みを伴う行為だなぁ。だから、意識を入れっぱなしってことは疲れるのも当然のこと。

でも、その訓練のあとで、そのスイッチを入れると記録だけではなく、事実認識の速度と人の話の理解の仕方、深さが若干変化したように思う。

葛の向こうに透かし見ていた柔らかい濃淡の景色から、ソリッドな線がわかるようになった気がする。

解像度、と敬愛する作家の古川日出男さんが口にしていたのを聞いたのは何年前になるだろう。


言葉や文章をつなぐことで私の世界の解像度が少しずつでもあがっていきますように。そう祈りながら今日はこの辺で終わりにします。

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ちなみにnoteの使用目的は使い方を覚えるためと、すぐにやりとりを溜め込んでしまう脳をスッキリさせるための装置としてダダ漏れさせる方向で使おうとしてる。意図が変わらない限り整理された記述には永遠にたどりつかないかもしれないという言い訳とともに。

八木亜紀子福島県立医科大学特任准教授 (精神保健福祉士 公認心理師 カリフォルニア州臨床ソーシャルワーカー)の講義と演習を受けさせていただいたことが自分にとってはかなりの宝と転機となっていて、それを仕事で活かして行きたいなと思う所存でした。未熟さと伸び代しかないですががんばろー。

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