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中古のラレ構文ー『今昔物語集』と『源氏物語』

せめて月に1本はブログを書こうと思います。がんばります。
(写真はいま家の庭に咲いている花)
現在,『名古屋大学人文学研究論集』に投稿する論文の校正をしてます。
これが,いつも〆切ギリギリまで書いているので,初稿でも再校でも修正がすごい。。本当にすみません。申し訳ありません(>_<)。

しかし,例えば学生の論文再校での修正の多さを目くじら立ててお叱りになる先生がいらっしゃるんですが,そんなに怒らなきゃいけないことなの?と感じます。もちろん,何度も何度も確認して誤植・脱字がないか確認して提出するわけですが,だいたいの場合,〆切ギリギリまでがんばって書いてる人が多いです。当然,完璧な原稿にはなっていません。
それに加え,研究というのは日々進化してます。ここで終わりということはない。毎日新しい論文を読めば,新しい気づきや知識が増え,数カ月前に書いた自分の論文に書き足したくなるのも分かります。

言い訳が長くなりましたが,今回の論文は,英語で書きました(笑)。
今昔の用例を使って,中古のラレについて語るのに,なぜ英語で?,しかも紀要に?という感じですが,これには強い動機があります。
昨年,ヨーロッパ日本研究協会(EAJS)の大会に参加し,古代語のラレについて発表しました。その時に,オクスフォード大学の大学院生に出会いました。彼はかの有名なFrellesvig先生(A History of Japanese Languageという本を出した偉い先生)の学生なんだそうです。彼はわたしの発表にもコメントしてくれて,わたしは恥ずかしいことにそのコメントにほとんど答えられなかったのですが,発表後のやりとりで,その学生がいかにFrellesvig先生を世界の日本語歴史研究のトップと考えているか,Oxford大学がいかに世界一かということを主張されたように感じました。
その子も日本語の歴史を研究していて,日本の国研にも留学経験があるそうですが,日本語で書かれた論文を一度も読んだことがないようでした(青木博史を知らない(笑))。

日本語の研究をしながら日本語で書かれた論文を読んだことがない研究者は世界にたくさんいます。現代日本語では,英語で書かれた論文もまあまああるので,腑に落ちないところがありますが,まあ許されているのが現状です。
本来であれば,英語で書かれた日本語についての論文というのは,英語しか読めない日本語研究者のためではなく,類型論や対照言語学などの研究にこそ活かされるべきかと思いますが,そうなっていないのが現状です。

一方,古代日本語に関する英語で書かれた論文は,比べ物にならないほど少ないです。このわずかな古代日本語や歴史研究の論文のみを読んで,古代日本語について発表するというのは,論外だと思いますが,国際学会では平然とそれが行われています。

この現状に非常にギモンを持ちました。日本語やるなら日本語で読め,と言いたいところですが,論文の日本語は確かに非常に難しく,また,AIに翻訳させても,あまり意味の分からない論文が多いだろうと想像されます。
「もっと日本国内の研究を英語で発信しないとダメだ」と痛感しました。
というわけで,試しにこの研究を英語で発信してみようと思い立った次第です。

今回の研究は,中古(平安後期)のラレ文について,『今昔物語集』の本朝世俗篇の後半から集めた用例と『源氏物語』の桐壺から朝顔までのラレ構文の用例を比較して,テキストとの関係をざっくり論じたものです。今昔は和漢混交文の特徴を持つテキストで,今回扱った本朝世俗篇後半は,その中でももっとも和文テイストが強いテキストとして知られます。だから,もっとコントラストのある対照をやるなら,本朝世俗篇より前から用例を収集した方がいいのでしょうが,今回はこれでやりました。両テキストの総語数はだいたい同じです。

分かったことは,今昔では有情主語受身の割合が圧倒的に多く,尊敬や主催と呼ばれる用法も相対的に多いということ,源氏では自発がもっとも多く,次いで有情主語受身が多いということでした。

今昔と源氏のラレ構文(Shiba, to appearより)

 今昔は,それぞれの登場人物の行為を外側から,内面に入り込むことなく淡々と描写するテキストです。これに対し,源氏はよく知られるように,風景描写さえも登場人物の心情を描写していると言われるほどに,心理描写(内面描写)で物語が進みます。

 受身と自発の意味は,以下のように考えます。
受身:人主題(受け手)に対し,自分の意図やコントロールに関わらず,外部の動作主からの事態が実現する
自発:人主題(動作主)に対し,自分の意図やコントロールに関わらず,自分の行為が実現する
両者は「主語(主題)の意図やコントロールの及ばないところで事態が実現する」という意味を共有していますが,受身は時代を経るにつれ,「外部から行為を被る」という意味を強めたものと考えられます。これはより動的な事態の捉え方です。
これに対し,自発は「自分の意図がない」という意味が強く,これは主題に立つ人の内面に関わる意味です。こうした違いから,受身の主題には3人称が現れますが,自発の主題(主語)に立つのは,会話文では1人称のみと思われます(現代語では断定できますが,古代語でもおそらくそう言えると思います)。これは,要するに,受身は通常の動作動詞構文と同等ですが,自発は感情形容詞や心理動詞の構文に準ずるということです。

このような構文の意味の違いから,源氏のような内面描写によって物語が展開するテキストでは自発の構文が発達し,今昔のようなドライなテキスト(外側から行為を描写する)では受身が主に用いられたのだと考えられます。

以上がおおざっぱな内容でした。
今後はこの結果を踏まえて,もう少し丁寧に,同じ受身でもどのように違うかということなどを見ていきたいと思っています。


Shiba, Ayako (to appear) Passive and related constructions with verbal suffix -(r)are- in Early  Middle Japanese: The case of Konjaku Monogatari-shū, The Journal of Humanities 7, Nagoya University.

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