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ミャンマー国軍は、政治勢力か犯罪者か、それとも毒親か…。

2/1クーデター後、何度か勉強会やセミナーでお話させていただく機会があり、ミャンマー国軍を毒親に、スーチー氏を親にたとえ、親離れが市民の抵抗の根底にある、という説明をしてきた。

こちらの記事では、クーデター後の状況と、市民が自分たちで未来を描こうとしている様子を伝えている。

一方で、今回のクーデターは、国軍とスーチー氏の権力闘争の帰結であり、政治勢力同士のぶつかりあいであるとの解説も目にする。

加えて、民主派政府「国民統一政府NUG」は、国軍は、国家を盗み人道への罪を犯し続けている犯罪者である、と主張している。

毒親、政治勢力、犯罪者…。ここまで捉え方が異なると、同じ現象も、まったく違って見える。今日は、国軍の捉え方について、私自身の経験を振り返りながら考えてみたい。

当時の国軍高官は朗らかで一生懸命

学生ボランティアとして現地を訪問した20年前当時、私には、国軍の統治体制に反対しようという気持ちは無かった。

理由のひとつは、表面的には人々は平穏な生活を送っており、都市部では治安が非常に良かったことだ。

しかも、国軍高官や行政官らと話す機会があったが、私たちが会った方たちに限れば、おおむね朗らかで国のために献身的な様子が伺えた。末端の若い兵士も、とても一生懸命で、純粋だった。

民主化にかかわると、現地関係者が危ない

ただ、私たちが民主化に関わると、私たちを現地で受け入れた民間の方が軍に拘束され命を狙われる危険があった。そのため、現地はもとより、日本で民主化活動をされている方たちと接触できず、彼らの気持を理解する機会がなかった。

さらに、ほんのわずかでも軍の批判をすると、それだけで関係者に迷惑がかかる可能性があり、活動許可のために軍にレターを書いたり、あるいは日本国内でボランティアについて取材を受ける際にも、かなり気を遣っていた。

当時から、国軍は批判に弱く、とても気難しい一面があった。

助け合い、親切心あふれる、市井のひとびと

訪問前は、圧政と貧困にあえぐ国というイメージがあった。が、実際には、一般の方々は驚くほど親切で世話焼きで、心穏やかに助け合って暮らしていた。あまりのギャップに驚いた。まさに、百聞は一見に如かず、である。

行ってみなければ、会ってみなければわからないことが多すぎる、これはミャンマーから学んだことのひとつだ。

なお、当時のミャンマーへの印象と現実のギャップは、高野秀行さんの、こちらの本がわかりやすい。

国軍は必要悪?

国軍関係者から、ミャンマーで135以上の少数民族がまとまるには国軍の力が必要不可欠であり、反政府活動を続ける少数民族武装勢力が多く、憲法を制定し、ミャンマーなりのスピードで、民主化へ向かっていて時間がかかる、それまで暫定的に軍が統治している、という説明を受けていた。

その説明が詭弁であることは、今や、都市部のミャンマー市民とともに、私も理解している。むしろ、国軍が民族や宗教間の分断をつくってきた側面が大きい。

しかし当時は、少なくとも中央平野部の人々は軍支配を受け入れ、表面的には平穏に、あるいは軍とのコネの恩恵を受けて、したたかに暮らしているように見えた。

軍統治下でボランティア、学びあいなんて、ダメ!?

イベント等で活動紹介をすると、難民支援をされているボランティアや一般の方から、「なぜミャンマーにボランティアに行くの!?軍政下で支援なんてダメ!!」「なぜ、ビルマではなくミャンマーと呼ぶの!?」と詰め寄られることも多かった。

私たちは、そこに暮らす人々と直接触れ合って交流し、必要な支援を行い、学びあいたいと考えていた。政治体制に異を唱えて現地に入れなくなるよりは、ボランティア活動を行うことを選んだのだ。

しかし、それは人権を軽視しているとみえたようだ。

大手新聞社から取材を受けた際には、話しもいないことが記事になって驚いたこともある。圧政のもと貧困に苦しむ人々を日本の若い学生が救いに行ったというストーリーを書かれてしまった。あまりの色眼鏡に辟易した。

人権か支援か。断絶か関与か。

なので、今、国軍による人権侵害を指摘し軍につながるビジネスを批判する人々に対して、ミャンマーで雇用を生もうと努力しているビジネスマンが、違和感を覚える気持は、ちょっとわかる。

もっといえば、日本の外務省が、国軍に強く出すぎて、ミャンマー市民へアクセスできなくなることを恐れ、様子見している気持ちもわかる。現地に残るNGOも、活動を続けるために国軍への批判はしていない。立場により、優先順位はかわるのだろう。

ミャンマーに限らず、人道支援系NGO、開発系NGO、環境系NGO、人権系NGOの間で、現実の捉え方や立ち位置が少しずつ異なり、ときにコミュニケーションや連携が難しいときがある。

ビジネス、政府、NGOなど、セクターが違えば、ミャンマー国軍に対する立ち位置の違いやアプローチ、ジレンマは、もっと大きくなるはずだ。

建設的なかかわりを模索しジレンマに苦しむ関係者からは、軍へ圧力をかけるアプローチは、受け入れがたいのかもしれない。

少数民族からは、まったく違う景色が見える

ただ、現地に通うなかで、都市部の地方出身の少数民族や、先祖をたどれば中国や少数民族にルーツがある方、仏教徒だけではなくムスリムやクリスチャンの方々とコミュニケーションをとる機会が増えていった。

そして、ワ、カチン、ナガ、シャンなど少数民族の暮らしが綴られた本を読むにつれ、まったく違うミャンマーの姿が見えてきた。

辺境の少数民族の目線でみれば、少数民族武装勢力(EAO)は、反政府組織ではなく、国軍の弾圧から守ってくれる守護者である。国軍こそが、彼らの生活を脅かす存在なのだ。(EAOと国軍が手を組んで住民をないがしろにする場合もあるが、ここでは割愛する)

人権系NGOへの感謝の気持ち

そして今、人権系NGOが作成した、過去の国軍による少数民族への迫害のレポートを読むと、国軍が正当性を主張する影で、おそろしい暴力が少数民族にふるわれていたことが理解できる。

これだけ丹念に、光のあたりにくい部分を調べて公にしてくれた人権系NGOや人権活動家の方々に、感謝の念を覚えている。

日本の人権系NGOも、国軍への資金をストップしようと懸命な努力をされておられ、必要な取り組みだと感じている。

国民の過半数に銃を向け、相互扶助を壊す国軍

今、軍は、EAOがいる少数民族地域に限って行ってきた苛烈な弾圧を、ミャンマー全国で広範囲に行っている。弾圧対象は軍の支配に抵抗するひとびとだ。国軍は、子どもから高齢者まで、国民の過半数に銃を向けている。

最近は都市部での重火器を用いた弾圧は減ったが、医療ボランティアなどの逮捕や取り締まりは非道を極める。行政の福祉が機能しないなか、必死に暮らしを守っている市民の相互扶助を破壊しているのだ。

民政移管後の10年で市民の時計は50年進んだ

民政移管前の若者たちは、先生が絶対で自分の意見を言ってはいけないという教育を受けていた。そのせいか、みな大人しく、自分の意見を言えない、あるいは誰かの言うことを聞くばかり、という雰囲気だった。「自分の意見を聞かれたのは生まれてはじめて」という若者もいた。

しかし、民政移管後の10年で、若者は劇的に変わった。

数年前に、いくつかの地域で若者と話をしたが、同じ国とは思えなかった。それぞれに自分なりの考えを持ち、英語を学んで海外からも情報を仕入れ、地域課題を自ら発見し解決策を仲間と考えて、行動にうつしていた。

たった10年で、家に固定電話がない状態からスマホ普及率100%超に変わり、発言や集会の自由も手に入れた。その環境変化によって、若者たちが、本来の力を発揮できるようになったのだと思う。

自分の運命は自分で決める

1988年から国軍と対峙し、民主化運動をけん引してきたスーチー氏は拘束され、市民は彼女を頼ることができない。それでも、市民が、苛烈な弾圧に負けず、ここまで抵抗を続けているのは、なぜだろうか。

抵抗の中心はZ世代といわれる若者たちだ。「軍に支配されたくない。自分のことは自分で決める」と、抵抗を続けている。

さらには、軍政期に教育を受け、社会人になった30代以降の子育て世代から「子どもたちを軍の奴隷にしたくない。絶対に諦めない」という声が、その上の世代からは「88年に自分たちが軍に勝っていれば、いま、こんなに人が死ぬことはなかった。悔しい」という声が聞かれる。

共通して見えてくるのは「支配されたくない」という気持ちだ。

ミャンマー国軍の絶対的自信

一方、国軍のスローガンに「国軍だけが父、国軍だけが母」というものがある。つまり、国軍を両親と思って敬い、その指導に従え、と国民を子ども扱いしているのだ。しかも、この文脈からは、子どもたる国民を、育てるのではなく所有物とみなしていることが読み取れる。

ミャンマーの人々に聞いてみると、国軍設立を支援した旧日本軍の影響が大きく、誕生同時のファシスト精神が抜けないのだそうだ。

国軍はイギリスからの独立の立役者ではあるが、独立後、国民を武力と恐怖で支配しつつ、軍は優位だ!救世主だ!と自分たちを正当化し、実効支配を強化してきたという。

歪んだ正義感で支配するミャンマー国軍

自分が正しいと信じ、相手を導くという歪んだ認知のもと暴力で支配する。これは何かに似ていないだろうか。そう、パワハラ、DV親、毒親だ。

しかし、民政移管後の10年で、市民は毒親の呪縛から解放された。

そして、それぞれが自分の考えを持つようになり、NLD批判も含めて政治論議をする若者も増えた。だから今、スーチー氏が拘束され彼女を頼るでもなく、市民一人ひとりが考え判断し、抵抗を続けているのだ。

毒親からの解放を求めている市民

国軍を政治勢力として見なすことは間違いではないと思う。だが、今回のクーデター後の抵抗は、スーチー氏ら政治勢力が率いているものではない。毒親からの独立のため、もう支配されないと覚悟した市民たちが、命と尊厳を守るために抵抗しているのだ。

国軍とスーチー氏の権力闘争という枠組みからは、大きく逸脱している。

では、外部から何ができるのか

毒親から自立し距離をとろうとしている子どもに対して、「どんな親でも親だから許して仲直りして」というべきだろうか。それとも、「親子の縁を切って、自分の人生を取り戻して」というべきだろうか。

恐怖と歪んだ正しさで支配しようとする親に対して、「もっとやさしく子どもを叱って」というべきだろうか。それとも、「子どもへの執着を手放して、子どもと距離をとって」というべきだろうか。

軍が倒れる可能性は極めて低いのだから、長い時間をかけて軍を説得し、市民も一定程度の軍政を受け入れる必要がある、との主張もある。これに対し、ミャンマー人たちが怒っているのを目にする。「一見もっともらしく聞こえるが、国軍温存だ。国軍の本質がわかっておらず美化している。国軍がいる限りクーデターを何度も繰り返す。その国に未来はない」と。

軍を説得するというアプローチは、「毒親が子どもを手放す可能性は極めて低いから、粘り強く関わって、親子の絆を取り戻すお手伝いをしよう。毒親とはいっても、親は親だ」とミャンマー市民に聞こえるのではないか。

そうした市民の声を代弁し、「親といえども、子どもに暴力をふるうならば、ただの加害者であり、親としての権利は失われる。裁かれる必要がある」と主張しているのが、民主派政府「国民統一政府(NUG)」なのだろう。

毒親は変わらない

ちなみに、毒親の場合、毒親の性質が変わることはないそうだ。だから、子どもは、毒親から離れて独立しなければ、命を失う危険もあるという。

虐待をする親は、自分が正しいと信じている。殺すつもりは全くなかったと誰もが言うそうだ。

では、なぜ命を失うほどの暴力を子どもにふるってしまうのか。暴力とは支配と非支配の関係で、死をもって支配は完璧なものとなり、完結するのだという。

始末が悪いのは、外からみると毒親もDV親も良識ある大人に見えることが多いことだ。私も20年前、国軍の毒親気質に気づかなかった。

そう考えると、ミャンマー国軍と市民が、もういちど親子関係に戻ることは、おそらくない。なおかつ、表面的な親子関係をもつこと、つまり国軍が政治に関与することは、市民が被害者であり続け、いずれ命を失うことを意味する。

モノ言わぬ外国人から、発信する側へ

私は20年前、ミャンマーの人々と直に触れ合い支援し学びあうために、当時の軍政に対してモノ言わぬ外国人だった。

しかし今は、入国できなくなり直接支援ができなくなったとしても、日本からできることを考えるほうが、意味が大きいと感じ、こうして記事を書いている。

というのも、私自身も、この20年間、いろいろな職場や暮らしのなかで、何人か、パワハラ気質、毒親気質の人物がいて、死ぬかと思うような目にあったのだ。だから、他人に支配されることが、いかに辛いかわかるつもりだ。その辛さは、我慢すればいいというレベルではなく、命にかかわるものだ。彼らの正しさへの自信と支配欲と巧妙さは恐ろしいものだった。

ただ、国軍は強大な武力でもって権力を掌握している。しかも、市民が抵抗すれば抵抗するほど、権力に執着している様子だ。軍隊を持たない市民が国軍から独立するのは、ひじょうに難しい。

それでも、「市民が自分のことを自分で決められる、尊厳をもって人間らしく生きられる」ことをゴールとして、一刻も早く支配から抜け出せるよう、できるかぎり応援していきたい。

そして、いろんなルーツや価値観をもつ人々が共存できる、多様性にみちたミャンマーの未来を、ともに考えていきたい。

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