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架空日記:朝子 2022/5/24

(去年書いた架空日記)

虫がいる。機嫌の悪い虫だ。
身をよじってそのうっぷんを晴らそうとするが、どうにも身をよじるにも限度がある。
発散しきれない熱を、虫はどうにか冷まそうと今度は水の中を泳いでみる。
スイスイ泳ぐ。あまりにスイスイ泳げて、今度は摩擦が足りない。摩擦がないのは快適である。行きたい方向に、行きたい時に進むことができる。だが、その快適さが少し憂鬱になってくる。すると、ボタンがひとつ掛け違ったような、言葉が少し届かないような、不透明な違和感が生じる。

虫は朝子である。朝子の中にいる、どうにも飼い慣らすことができない別の存在のことだ。虫はとてもおとなしくて、姿を消したかのような時もあれば、大暴れをして、台風に翻弄されるヒトのようになすすべもなくじっと過ぎるのを待つしかないような時もある。
時に虫をなだめすかして、時に虫に翻弄され、時にはお伺いを立てるかのように、朝子は虫と暮らしている。

この虫の存在に朝子が気づいたのは最近のことだ。おそらく、ここ1~2年の間に朝子の中で形を成し、自由気ままな性質を発揮するようになった。
それまでの朝子には、虫の住めるような環境は整っていなかった。暗くて冷たい、時が静かに流れる月の表面のような場所がそれまでの朝子の体内であった。ところどころ、影ばかりが深い、クレーターのような穴がしんしんと周りの光を吸い込んでいた。

朝子はクレーターのことを少しは知っていたが、その黒い穴の淵から中を覗き込もうと思っても冷え冷えと暗いだけであった。
穴は、怖いものではなかった。とても乾燥していたので、ただただ冷えた穴であった。

その朝子のクレーターだが、ここ数年の間に徐々に姿を変え、ある時朝子が気づいた時には緑でうっそうとした、こんこんと水が湧く泉になっていたのだ。
底なしの穴のように見えたクレーターは、泉になったのだ。今では一年を通して枯れることなく木や草花が生い茂り、透明で涼しげな水が流れるオアシスとなっている。このオアシスのあるところは暖かく、程よく湿って程よく乾燥していて、昔は月の表面のようであったことを思い出させることがないような場所である。

朝子の体内が月の表面からオアシスの泉に変わったことで、朝子は自分の体温が昔と比べて少し上がったことに気づいている。手先が氷のように冷たいということはもうあまりない。足先が冷えて眠れないということもあまりない。

さて、そこで虫である。この虫はおそらく、暖かさと湿度の増した朝子の体内に呼応してそこに住むようになったのだと思われる。
あるいは、朝子自身が必要として呼んだということも考えられる。何にせよ、虫はこの場所をまあまあ快適に感じているようだ。

虫は意外とお調子者で、律儀だ。朝は早くから動きたいが、宿主の朝子がその名に反して朝が弱く、日が昇るまで寝ている。なので毎朝出鼻をくじかれたような、そんな苛立ちを覚えている。

お調子者の虫は朝からバイキング、ケーキも嗜んで、食後のコーヒー、という優雅なような、見境のないような一日の初め方を望んでいる。しかし、宿主の朝子は、朝はトースト一枚にコーヒーいっぱいと決めているようで、これまた優雅なモーニングを決めたい虫にとっては貧しい思いになる。

虫はまた律儀である。毎日決まった時間にトレーニングをして体力増強に励んだり、原稿を書いたり、あるいはゆっくり昼寝兼休憩を取りたいと思っている。ところがこれまた朝子はというと、トレーニングは気まぐれで、その時々の「追われるモノ」に追われている。「追われている」というのは朝子の弁であるが、虫は知っている。朝子は「追われ」ているのではないことを。「追わせ」ているのだ。そして、休憩など何のその、昼寝だなんてもってのほか。体を動かす時間すらないとつぶやきながら夜更かしをしたり、机から離れない。

その朝子の悪癖に虫はほとほとうんざりしている。うんざりを通り越して、くるりと一回転、愉快ですらある。しかし、朝子の生活は虫にとっては自分の環境に直結する一大事なのである。愉快などと言っている場合ではない。

そこで冒頭に戻るのである。虫はとても機嫌が悪い。虫には自身の環境を変えることはできない。それなのに、その環境のカギを握っている朝子は虫のことをちっともわかっていない。虫も大変である。

虫は無力なのか?いや、そんなことはない。虫のご機嫌は朝子に爽やかさや活力を与えている。虫のフラストレーションは朝子にとってはもやもや、ピリピリ、不快である。

ある日虫の存在に朝子は気づいた。自分ではない存在、虫がいると。自分ではコントロールできない外部(内部にいるが)だと思っていた虫であるが、朝子自身が虫の環境であったと、そして虫にとっていろいろと住み心地の悪い環境であったと知った朝子はこの虫のことが少し気の毒に思えた。

気の毒であるのと、虫という他者の存在への敬意を込めて、朝子はこの虫に名前をつけることにした。「レオン」と。なぜか洋名なのである。正確にいうと、この名前は朝子がつけたのではない。虫に聞いたのだ。

「おまえはどんな名前がいいのか?」と。
「Leon(レオン)」

虫は、英文字で返してきた。だから、彼の名前はLeonである。


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