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美しいおっさんの背中を見て、歳をとるのも悪くないと思った。

毎週火曜日の夕方、私は機嫌が良い。夕飯の支度を済ませ、私が出かけるのを引き止めようとする娘たちのほっぺに軽くキスをして、「いってきます」と軽い足取りで家を出る。あるおっさんに会いに行くのだ。

おっさんの名前はマリアーノという。多分40代半ばだろう。無精ひげなのか、あえてそういうデザインなのか、よくわからないモジャモジャの口元。かきあげる様子が異常にセクシーなクセのある髪。無駄のない、鍛え上げられた躰。そして黒い瞳でまっすぐに見つめ、私のことをAyaと呼ぶ。

マリアーノはフラメンコの先生だ。4月末までの期間限定で、いつも通っているスタジオの特別講師として、スペインから来られている。私は知らなかったのだけれど、結構有名なダンサーらしい。彼のレッスンが受けられるよ!と聞いた時、周りの生徒たちは色めき立ち、外部からも生徒が集まってきたほどだ。

そして、私は初回レッスン90分間ですっかり彼のファンになってしまった。

英語でレッスンするからね!と言っていたのに、疲れてくるのだろうか、レッスンの後半はスペイン語しか話さなくなる。彼の踏むステップは、凶器にもなりうるのではと思うほど、強く、激しい。一方、パワフルな踊りとは反して、私たち生徒には人懐っこい笑顔で、何度もGoodと言ってくれる。

踊る上での細かいテクニックも教えてくれる。回るときの足の位置や視線、ステップの力の入れ具合……けれど、本当に重要なのはそこじゃない。マリアーノは「フラメンコは自身のエネルギーの表現」だと、教えてくれている。そう、私は感じている。

彼そのものがエネルギーの塊のような人だ。彼のレッスンを受けた後は毎回、身体は疲れているはずなのに、エネルギーチャージされたような感覚がある。そして、壁一面の鏡の前に立つ彼の背中には、人生をかけてフラメンコを踊ってきた歴史が刻まれている。その自信こそが、彼の迫力なのかもしれない。プロフェッショナルとして、仕事を楽しみ、愛している様が伝わってくる。

そして、そんなマリアーノを私は「美しい」と思うのだ。普段、私が惹かれる美とは違う種類だけれど、彼を表現するには、一番しっくりくる。

正直、私はこれまで歳は取りたくないと思ってきた。肌は衰えない方がいいし、髪の毛に混じる白髪だって見たくない。20代には戻らなくていいけれど、できるならばこのままでいたい。それが本音だった。なのに、人生で初めて、40代になるのも悪くないな、と自然と思えたのだ。鍛え上げられた美しいおっさんの背中を見て。これまで歩んできたキャリアに自信をもって、魅せられる背中を手に入れられるのなら、歳をとるのは悪くないどころか、素敵なことかもしれない。そう、思う。

マリアーノは私がそんな風に彼のことを見ていることを、露程も知らない。そしてスペイン語では、こんな話までできない。Google翻訳でも使って、たとえ奇妙な訳であってもこの文章を見せてみようか。いや、それは気恥ずかしいな。そんなことを思いながら、私は今日もスタジオでマリアーノの背中を見つめる。

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