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《世界史》陽気な王様チャールズ2世

こんにちは。
Ayaです。
王政復古で帰国したチャールズ2世(1630〜1685)。彼は父の非業の死の反省を活かして、政治にあまりタッチしませんでした。一方で、たくさんの愛人たちを抱えて派手な暮らしをしたため、『メリー・モナーク(陽気な王様)』と親しまれました。きっと亡命生活で苦労してたので大目にみられていたのでしょう。今日は彼の個性的な愛人たちについてまとめます。まずは正妻からです。

チャールズ2世

王妃キャサリン・オブ・ブラガンザ(1638〜1705)

キャサリンはポルトガル王ジョアン3世の娘として生まれます。亡命前のチャールズ2世と婚約し、1662年に結婚します。この時、莫大な持参金と、インドのボンベイ、アフリカのタンジールをイギリスにもたらします。
当時誰もその重要さがわかっていませんでしたが、大英帝国の基礎となります。
彼女はカトリックからの改宗を拒み、戴冠も拒否したことから国民からは嫌われていました。こどもも生まれなかったためさらに立場が悪化しますが、チャールズ2世が擁護し続けました。
また、彼女がイギリスにもたらしたものが、喫茶文化です。イギリスといえば紅茶ですが、この文化は彼女がもたらしたものだったのです。
しかし、チャールズ2世との結婚生活は苦労続きでした。愛人がたびたび現れ、それぞれと付き合いを求められたからでした。

王妃キャサリン
こどもがいなかったが、チャールズ2世は彼女を尊重し、愛人たちが彼女を蔑めると、叱り飛ばしたという。

多くの愛人がいたチャールズ2世ですが、特に著名な3人についてまとめます。

バーバラ・パーマ(1641〜1709)

バーバラは1641年に生まれ、1659年にはロジャー・パーマと結婚しました。翌年王党派だった夫に付き添いチャールズの亡命宮廷に出向いたときに見染められます。黒髪の美女でチャールズは夢中になります。しかし、嫉妬深い性格で、1662年キャサリンと結婚すると、『新婚生活を送るハンプントン・コートでこどもを出産する』とさわぎ、チャールズや臣下を慌てさせます。
かと言ってチャールズ一筋というわけではなく他の愛人もいたので、彼女が出産するたびチャールズと認知のいざこざを起こします。泣き落としだけでなく、『認知してくれなきゃ窓から赤子を落とす!』と脅し、いつもチャールズが折れるのでした。
チャールズに新しい愛人ができるたびに罵っていたため、さすがにチャールズも愛情が薄れたようであるとフランス大使がルイ14世に報告しています。

バーバラ・パーマ
金銭欲や名誉欲も強く、チャールズにたびたびねだり、宮廷人は眉を顰めた。すぐ後の愛人ネルを『哀れな放浪役者』と罵るなど気が強かった。

ネル・グヴィン(1650〜1687)

ネルは1650年王党派の大尉の娘に生まれます。生後すぐ父が獄死すると、母と姉と極貧生活を送ります。この生活から抜け出そうと、11歳からオレンジ売りとして働き、成長すると女優を目指します。そのうちチャールズ・ハート(シェイクスピアの甥の子)に見出され、女優として成功します。ハートの恋人となった後、さまざまな男性をパトロンに持ちながら、1668年チャールズ2世に見染められます。
ネルはチャールズを『私のチャールズ3世』と呼ぶあぴっひろげな性格で愛されました。なぜ『チャールズ3世』なのかというと、王が彼女にとってチャールズという名の恋人として3人目だったからです。先輩の愛人バーバラが自分を『哀れな放浪役者』と罵ったと聞けば、バーバラの邸前でバーバラが出かけるのを見計らって『娼婦が商売に行くよ!』と応戦しました。さらに新しい愛人ルイーズが現れると、『やぶにらみ美人』というあだ名をつけて溜飲を下げます。チャールズにも容赦しません。チャールズが自分の産んだ子を認知しないと、チャールズの目の前で『おいで、私生児ちゃん!』と呼ぶという強烈な逸話が残っています(このおかげか、認知を得ることができました)。また若い頃苦労したためか、昔の役者仲間が困っていると聞くと惜しげもなく援助しました。
チャールズは死の直前『かわいそうなネルを飢えさせないでくれ』と遺言していたので、最後まで愛されていたようです。

ネル・グヴィン
国民に嫌われていたルイーズに間違えられて石を投げられると、『みなさん、乱暴しないで。私はプロテスタントの娼婦よ!』と応じ、喝采に変わったという。
葬儀には身分の上下を問わず多くの弔問客が訪れた。遺言で老兵院に寄付したことから、老兵院では『良き王チャールズと我らのネリーのために!』と乾杯する慣例ができた。

ルイーズ・ケルアイユ(1649〜1734)

ルイーズは1649年フランスの貧乏貴族の娘に生まれます。持参金も用意できない貧しさだったため、女官としてルイ14世の弟の妃に仕えます。
親はルイ14世に見染められたかったようですが、当時愛人のいたルイ14世は別の活用を見出します。女好きで知られていたチャールズ2世に遣わして、彼をカトリックにするという計画です。ルイ14世の密命をうけて、1670年イギリスに渡ります。
計画通り、チャールズ2世は美貌と今までの愛人にはない慎ましさに魅了され、ルイーズに夢中になります。しかし、その慎ましさは仮面で、権勢欲が強く、王妃キャサリンが重病時に王妃のように振る舞い、人々の顰蹙を買いました。
チャールズ2世が崩御すると、フランスに戻り、ルイ14世からの年金で余生を過ごします。

ルイーズ・ケルアイユ
近視だったので目を顰めることがあり、ネルから『やぶにらみ美人』とあだ名をつけらる。後年浮気相手に大金を貢ぎ、チャールズ2世を激怒させることとなる。

このように多くの愛人を持ち、14人の庶子をもうけますが、『陽気な王様』と人々に愛されたチャールズ2世。しかし、死の直前、国民を裏切ります。カトリックであることをカミングアウトし、臨終の終油を受けるのです。現在では亡命時代に改宗していたと考えられています。つまり、ルイーズを送り込んだルイ14世の策略はその前から成就していたわけです。1685年崩御、享年54歳。
王妃との間に子はなかったため、弟のジェームズが後継者となります。しかし、このジェームズは兄とは違い、すでにカトリックであることを公表していたため、彼を後継者と認めるか人々の意見が割れます。これが、トーリー党(容認派)とホイッグ党(否定派)の成り立ちで、現在の保守党と労働党の起源となります。

今回はここまでとします。チャールズ2世の庶子14人ですが、その後も高位貴族として存続し、ダイアナ元皇太子妃やセーラ元アンドルー妃を輩出、現在の王室にも血が繋がっています。そう考えるととても興味深いですね。
国王として死ねたチャールズ2世ですが、その弟ジェームズはどうなるのでしょうか‥。

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