所感と自戒と、それからそれから①

あえて言えば、資格試験とはその性質からして簡単なもののはずである。
・試験範囲は明示されている
・試験範囲は、おおむね体系化された学問が基礎にある
・答え(唯一解でなくとも想定される解答例)がある
職業人人生や子育て、あるいは人生そのものなど、正解がない、あるいは向き合い考え続けることに意味があるような”難関”とは一線を画す。

とはいえ、現実には難関資格ともなれば数年単位で勉強を続け、それでも辛酸をなめ続けている人がいる。
私自身、恥ずかしながら生涯の資格試験合格率*はそう高くないし、なんなら大学の単位は大量に落としている。
*合格回数÷受験回数

なぜ簡単なはずの資格試験に落ちるのか。
ものすごく単純に考えると、合格点に届いていないからという小学生でもわかる答えになる。
たしかに試験というものは「受験者の選抜」という性質が一定あるので、自然、誰でも必ず受かるものではない。また、合格する実力があったとしても周囲との比較(相対評価*)の結果、不合格となることはある。
*中小企業診断士の2次試験や、簿記1級は合格点は決まっているが採点上は相対評価と言われている

とはいえ中小企業診断士の1次試験を含む大多数(少なくとも、相当割合)の試験は絶対評価を採用していて、基本的には自分との戦い、controllable(自分が管理可能な)な戦いと言える。
これは相対評価の試験であっても同じ考え方。というより、絶対評価でも相対評価でも自分ができることは基本的には変わらない。
勉強して、獲得点数を上げる。これに尽きる。

ではなぜ点数が上がらないのか。
試験当日のテクニックや体調管理は脇において、いわゆる試験勉強期間を設けているにも関わらず、なぜ合格点に達するだけの実力が養われないのか。

これに関しても、無数の理由が挙げられるだろうし、私が考える理由は当然にその中に含まれている。
曰く、そもそも勉強時間が足りない
曰く、インプット偏重で、アウトプット重視の勉強ができていない
曰く、試験委員の思想・発想に回答が沿っていない
曰く、地頭の問題である
、、、

それらの理由には、おおむね、一理あると思う。重要な話である。
一方で、そういった理由がフォーカスしているのは日々の取組に対する問題点であり、対応する打ち手も具体的な勉強の進め方に偏っているのではないか。

当たり前の話で恐縮だが、何事も目的・ゴールがあり、達成するために取り組む内容があり、具体的な進め方がある。
目的やゴールが正しくなければ、取組内容が目的達成やゴールインに寄与しなければ、いくら具体的な進め方を考え実行に移しても生産性は0となってしまう。
野球選手になるためにテニススクールに通っても意味がない*。
*ちょっと厄介なのが、「100%意味がない」と明確に言い切れるわけではない。これが落とし穴。

目的・ゴールを設定しない人はいないに違いないが、明確に意識できていない・ぶれている可能性はないか。
取組内容はその目的・ゴールへの到達に貢献するか。
進め方は、目的・ゴールが意識され、最短または相応に効率的なものと言えるか。

そういったことを、常々考えながら進めないと勉強が無駄足になるのではないか、と感じている。

知識労働者の多くは意味のない仕事で忙しさが増大する

P・F・ドラッカー著、上田惇生編訳『プロフェッショナルの条件』


試験勉強には、上記の目的・ゴール設定の場面も含め、日々の進め方に至るまでの随所に「陥りがちな罠」が散りばめられているように思う。
「罠」は「罠」と呼ばれるくらいには、さりげなく・巧妙に受験勉強生活の中に潜んでいる(と思ってる)(自分で命名したんだけども)。
そういった「罠」を回避しつつ、目的に向かって邁進するためには、
”勉強内容そのものに対する思考”に加え、”段取りの思考”とも言うべき「考えること」が日々必要だと思う。逆説的だが、それによって「罠」から抜け出すことも可能なはず。

試験勉強には2つの考えるモードが必要。どっちも大事。
これが今時点の所感である。

自分の考えたとおりに生きなければならない。そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう。

ポール・ブールジェ(フランスの小説家)

では、「陥りがちな罠」とは具体的になにか。
見切り発車で書いてるので次回以降気が向いたら書いていきたい。

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