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従兄弟の復員と祖母の死(昭和20年)

昭和二十年八月、日本は広島と長崎に原爆を投下され、ポツダム宣言の受諾を余儀なくされた。
八月十五日、玉音放送があり、終戦となった。
終戦などという体裁のよいものではない。敗戦である。
鈴木貫太郎内閣が四ヶ月半しか続かず、総辞職して、八月十七日、東久邇宮稔彦内閣が成立した。国民は、宮家の首相には反抗できないからである。誰が考えたのか、苦肉の策だったのだろう。
八月十八日、連合軍総司令部(GHQ)が横浜に設立された。
八月三十日、マッカーサーが厚木に到着。
九月二日、ミズーリ号艦上で、日本は無条件降伏文書に調印した。全権大使として重光葵外相と梅津美治郎外交官だった。
当日早速、GHQの第一の指令は、陸・海・空軍の即時解体と軍需生産工場の全面停止だった。

軍の解体が速やかに進められ、伯母の家の長男・勝元君が、九月五日、無事復員して来た。横須賀からすし詰めの汽車に乗り、やっとやっと辿り着いたという。恩賜の勲章とミルクキャラメル一グロス、蚤つきの毛布をいただいて、誇らしげに見えても、胸の奥には複雑な葛藤を抱えて帰ってきたに違いない。
伯母は大喜び。伯母の家に疎開していた祖母も、涙を流して出迎えたそうだ。
従兄弟の勝元君は海軍に所属していて、砲撃手であったから、南太平洋戦争の時、敵の軍艦目がけて撃った弾丸が奇しくも命中して、大破させたのだそうだ。
その功績によって、恩賜の勲章をいただいたのだ。
艦上から大砲を撃っても、めったに当たらず、殆どが無駄打ちになってしまうのだそうだが、幸運だったと言っていた。
おみやげのミルクキャラメルは、内地では何年もの間見たことがなかったので、祖母は一箱いただき、珍しくて美味しくて、大事に一日一箇ずつ、味わいながら舐めていたようだ。
ところが、孫の帰還にホッとしたのか、九月七日ポックリと他界した。
伯母が朝いつまでも起きてこないので、寝室に行ってみたら、すでに息絶えていたという。
キャラメルは二箇しか食べておらず、八箇も残っていたそうだ。
でも、かすかに微笑んでいるような安らかな佛の顔だったとか。それがせめてもの救いだったと、伯母は言っていた。

知らせを受けた母は、自転車で伯母の家に駆けつけた。勝元君の復員祝いの挨拶もそこそこに、どこで葬儀をしようかと伯母と相談した。やはり、お墓のある祖母の生まれた家から見送ることにした。しかし、終戦直後のことで、霊柩車もなければ、タクシーも寝台車もない時代だったから、どうやって亡骸を運ぶか、はたと困ってしまったのだ。
その時、勝元くんが、「僕がお負って行くよ」と言ったのだ。
「戦場では、亡くなった戦友を背負うのは日常的なことだったから、おばあちゃんを背負うことぐらい平気だ」と言って、夕方薄暗くなってから、柳田村から高橋村まで約六キロの道を、亡骸を背負って運んでくれた。
祖母は最後に孫に背負われて、あの世に行ったのだから、さぞ嬉しかったことと思う。
母は一旦自宅に戻り、喪服を整えて、姉と私と一緒に、木炭バスで行こうとしたが、大勢並んでいて割り込むことも出来ず、満員で乗れなかったので、やはり歩くしかなかった。
九月の残暑の候に、汗だくになりながら、十キロの道を歩いて、へとへとになって、やっと高橋村にたどり着いた。
でも、勝元くんのおかげで、葬儀の段取りはスムーズに運んだ。
餓死者も出るほど食糧の乏しい時代だったから、お花を飾り、伯母の一家と我が家の家族だけの小さな葬儀であった。
当時はまだ土葬だったから、埋葬のお経をお寺の住職さんに唱えていただき、野辺の送りは完了したのだ。
祖母の八十年の人生だった。
「おばあちゃん、さようなら」と私は心の中で叫んだ。せめてキャラメルを全部食べてくれればよかったのになあ、と涙が溢れた。伯母も母も姉も、皆で泣いた。
勝元くんは、除隊早々、亡骸を背負ったり、墓穴を掘ったり、大変な働きであった。

さて、蚤つきの毛布の件である。
昭和二十年は、日支事変以来八年もの年月戦争していて、物資はすべて底をついていた。毛布は貴重な品だった。伯母は勝元くんが持ち帰った毛布を家の中には入れずに、庭にむしろを敷き、その上に広げて、先ず熱湯を隅から隅まで丁寧にかけ、裏返して又熱湯をかけ、太陽に当てることを三日間繰り返した。
次に屋敷の東を流れている用水路で、石鹸代わりのアク灰をつけて、これも丁寧に隅から隅まで、ヘチマだわしで洗い、用水路の両岸に杭を立てて、そこに毛布を紐で結わえて、又三日間水の流れに晒してから、よくよく乾かして、やっと家の中に持ち込んだ、と笑いながら話していた。
母が「姉さんは根気がいいね」と大笑いしたのだった。
忘れられないエピソードである。

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