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world changer no.1 治療文化論 中井久夫

【治療文化論】
これは精神医学医である
中井久夫の著書の1つである

中井久夫の事をわたしが知ったのは
つい最近の事だ

彼は2022年8月8日 
88歳にてその生涯を終えた

それについて教えてくれたのは
他でも無い友人であった彼だ

彼は非常に様々な学問についてや
たくさんの知識をわたしに教えてくれた

この事には本当に感謝の気持ちしか無い

わたしよりも長く生きている分
その分だけの自身の経験から言える事
そしてそこまでの彼の努力の全ての
賜物であり

わたしはそんな彼を尊敬する

わたしは中井久夫と言う人物について
知る事、学ぶ事、そしてそれを繋ぐ必要性が
在ると考える

彼の残した全ては
今、バトンは繋がった

わたし、齋藤綾嘉に

歴史はいつの日もそうだ
わたしは同じ様に
わたしの残せた全てを繋ぐのだ

次の誰かに

本書、治療文化論とは
精神医学的再構築の試みであり

何を病気とし、誰を治療者とし
何をもって治療とするのか

普遍症候群
文化依存症候群
個人症候群の軸を立て

精神病理と文化をさまざまな角度から
考察するモノであり

治療の仕方、患者・治療者関係をはじめ
無数のことがないまぜになっている
「治療文化」から

精神医療を根源的に問い直し
人間理解への新たな視点を開く
画期的論考である

従来精神病理は
「普遍症候群」「文化依存症候群」と言う
2つのカテゴリーに分類されてきた

だが中井久夫は永年の臨床体験から
「個人症候群」という新しい概念を提示した

ある1人の個人に一回きりしか現れない症状
「個人症候群」

そのケースでは個人が土着する文脈にこそ
治療につながる鍵があるとし

祈祷や民間療法が
遥かに、効果を発揮することすらあるのだ
と彼は述べる

この視点は普遍的な基準のみに
依存する近代精神医学への大きな
アンチテーゼとなった

*『antithese』とは「ある理論・主張を否定するために提出される反対の理論・主張」である

この中井が定義した個人症候群
これがわたしの提唱するBOR理論にも
繋がるのだ

それはポーランドの精神科医
ドンブロフスキ(人格心理学専攻)
の正の崩壊理論とも繋がっている
とわたしは考える

中井とドンブロフスキが言いたい事は
違うが通ずる

中井は医師であり、自分自身が
「当事者」でもあったとわたしは推測する
それはドンブロフスキについてもだが

何かしら、どこかしらに「その要素」があり
そして、「人とは違う角度から違う事を考える」
にはそれが無ければ

導く事は不可能だからだ

彼らは「たまたま」医師だったとも言えるし
「それを思考し、伝える事に生涯を捧げた」よってその為に医師となった
とも言えるとわたしは考える
=(world changer)

これが齋藤綾嘉の言う
「世界を変える為にそれぞれの変えるべく世界の方向に向かって行く」に繋がるのだ

この様に「当たり前」に誰しもが
気づく事でもなければ、誰しもが思考する事
でも無く、そして体験しなければ、そこに
「解る事」は無い

だからこそなのだ
「当事者」の事はどんなにそれが不明で
解らない事であっても「当事者」の中からしか
生まれる事の無いモノが
その不明なモノを解き明かす事に
繋がって行く経緯と傾向がある

よって「知り得ない者」「当事者」で無い
限り解る筈など無いし、それはほぼ不可能に
近いと言えるだろう

中井で言う所の2つのカテゴリー
それについて他の者が研究をし
「解る」と言った事はあると考える

しかし、解らない者には決して解らないし
解る者には解るとしか言い様の無い
「不明瞭な何か」と言うモノは必ず
存在する

それがまさに今、皆さんが大層騒いでいる
「gifted」と呼ばれる概念である

これがそこに当てはまる
「不明瞭な何か」であり
だからこそわたしは「間違い」であると
主張しているのだ

何の根拠も無しにただ述べでいる訳では無い

これは、giftedに限らず
他の「不明瞭な何か」には同じ事が言える

何故「当事者」でしか導く事が不可能であるか?
と考察した場合、1番の理由は先程わたしが
述べた事、それしか無いのだが
他人には「解り得ない事」である

人間とは自分に解り得ない事(自分の範疇に無い、もしくはそれに関する知識などが乏しいなどの)場合それらは=解らないとなる

その様な普遍的人間の思考と考え方は
一緒だと言えるだろう

よって「解らない」とほぼ結論付けられる
と齋藤綾嘉は考える

言い切らない事の理由については
いつの日もそうで無い「可能性」があると
わたしは考えている人間だからだ

証明出来き無い事には断言する事は出来ない
しかし、この世界には、証明出来無いが
そうであるとしか言い様が無い、考える
事が不可能であるとしたモノについては
そうである(現時点で)と言う形で結論付け
証明しているのだ

例えば、アインシュタインによる
相対性理論、それとてこの地球上に置いて
その理論以上の理論は推測の域を出ない
よって覆す事が出来ない(現時点で)

では、その理論は
どの様に導かれたのかとなれば
実際に実験出来た訳でも無ければ
人間の目により可視化できる状態だった
訳でも無い

しかし、それは多くの事柄と数学的理論
及び様々な観点から「そうである」としか
言う事が出来なかった

ただ「それだけの事」なのだ

皆さんは非常に
確信的であるとわたしは感じる
「絶対」「証明」「科学的」と言うword
が全てを=「正しい」と結論付けているが

この世界の謎はそんなにeasyでは無い
時期尚早であるとわたしは考える

ある人は言っていた
「わたしは科学的に証明された事しか信じ無い」

笑えるくらい可笑しな話だ
この世界には非科学的要素だらけだよ

仮に今、「証明された」としている
科学的な根拠が「絶対」に正しいと
何故言い切る事ができるのだろう?

皆さんは多くの「可能性」を
視野に入れてはいない
であるなら、導く事は不可能としか
言え無いよ

よって「決めつけ」が激しく
他人の意見を聞かない者は何も解る事が無い
これは断言出来る

何故なら「圧倒的な情報量の不足」「可能性の欠如」「視野の狭さ」そこから導かれる事など
たかが知れる事しか無い
それ以上のモノは導かれ無い

当たり前の話である

よって今ある全ての事柄に
「絶対」など無い
それは証明(仮)と同じ様なモノであり
現時点での事柄だと言う事を
どうやら皆さんは理解出来ないらしい

その様に捉える事が出来ないからこそ
気づく訳など無いだろう?
とわたしは思う

そもそも、歴史とはそれの連続体であり
いつの日もその様に
更新されて行っているではないか

であるなら、皆さんの仰る「普通」と言う
観点から考えれば解る事だと思うのだがね

この様な詳細な事項について
わたしは今までほぼ述べてはいない

それは、当初は本にしようとしていたのだから
当たり前の話であるが

これを聞いても、わたしを妄想扱いするのだろうか?わたしはとても気になる

今回の記事でわたしが皆さんに1番伝えたい事は
「人の話とは生きている知識であり」
聞かなければ、解る事などありはしないのだ

とわたしが常々言っている事だ

今回は特にその理論について触れたわけでも
何でも無いが
わたしはこの様に少しずつ
綴って行こうと思うのだ

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