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儚い女の子になりたかった

17歳のころ、Twitterでnoranekoというアカウントを見つけた。もう消えてしまったから記憶はあまりないけど、たくさんの写真と、私の拙い言葉で言えばシンプルで湿気を帯びた言葉がぽつぽつと更新されているアカウントだった。たくさんの写真にはいつも儚げにこちらを見るおんなのこが写っていた。兎丸愛美さんという名前のおんなのこだった。17歳、毎日飽きもせず会って好きだと言いまくっていた彼氏と、答えを写してばかりの宿題と、居心地の悪い部活しかなかった私には、彼女が妖精や、天使や、聖母に見えた。私の知らない街で、くしゃくしゃに笑っていたり、涙を流していたり、川にはだかで浮かんでいたり、ベッドにはだかで浮かんでいたりする、瞳と肌の色素が薄く、細くてさらさらな髪の毛をまとう彼女に、私はどうしても心を惹かれた。彼女のアカウントをなぞる日々がつづいたある日、彼女がヌードモデルであること、雑誌で写真の連載のモデルをしていること、東京のバーで毎週日曜日に働いていることを知った。ゴールデン街のnaguneというバーだった。東京に出て自分の歌の力を試したいと誰にいうでもなく燻らせながらひとまず大学受験だと思いつつ、まだ先のことだと当時から自堕落をマスターしていた17歳の冬、毎日のように会う彼氏と飲み物を飲むためにしかお金を使っていなかった私だけれど、どうして彼女に会いたいと思い、DMを送った。

17歳のファンです。再来年東京の大学に受かって上京したら、あなたの働くバーに行きたいのですが、成人していなくてもはいれますか。

常識も何もない私に、彼女は真摯に返信をくれた。お酒を提供する場所だから、お酒を飲める年齢になったら是非いらしてくださいというような内容。やっぱりダメだった。あと3年もある。興味があちこちに浮かんでは消えていた17歳の私、すっと諦めてしまった。

それでも彼女のTwitterとInstagramを元気がない時になぞることはずっと続けられた。たいそうなことをしたわけではないけれど、ミーハーで、好きなアーティストも俳優もさほどない、なんなら全員のことをほんのり好きだと思ってしまえるような性分の私にとっては、珍しいことだった。

彼女がいる写真は、不思議だった。私の少ない語彙の中で当てはまる単語は、生身、無垢、儚い、赤裸々。どこかもわからない海辺、川辺、誰のかもわからない部屋で写っていた彼女。誰のかもわからない影、誰のかもわからない指と写っていたりした彼女。誰といるんだろう、どこにいるんだろう、今日は何を食べて、何を飲んで、何時に眠るんだろう。
恋のような感覚でずっと彼女の写真を見ていた。
彼女の紡ぐ言葉も、私にとっては特別だった。今すぐにでも消えたいけれど、それでも生きているような、毎日を必死に愛しているような、生きた言葉だと思った。

彼女がはだかの写真を撮ってもらったのは19歳の頃で、死にたくなって、死ぬ前に遺影を撮ろうと思い立ち、撮ってもらったのだと知った。
なんて美しいんだろうと私は思った。なんの変哲もない高校生にとっては、すべてが特別に見えたし、それを知った自分も特別な人になれたような、言い表せない恍惚感が私の心を満たしてくれた。

彼女のことが好きなのか、彼女のことが好きな自分が好きなのか、それともどちらもなのか、未だ判断できていない。

それでも私は、いつか彼女のようにカメラの前で生まれたままの姿になってみたいと今尚思う。彼女のような長い手足が、サラサラのミディアムヘアーが、湿度の高い瞳が、美術品のような綺麗な肌が、今でもほしい。今でも、どうしても彼女になりたい。

彼女が万が一これを読んだらきっと傷ついてしまうだろうとふと思った。たかがSNSだ。どこまでがリアルかわからない。彼女のほんの一部を私は覗き見させてもらっている立場だろう。そんな他人が自分を欲しいといい、勝手に神格化しているのだ、さすがに怖い。

それでも書かずにいられなかったのは、私が私の中だけでは彼女への気持ちを消化しきれなかったから。だと、思う。

彼女は今、私の知る限りでは、19歳の頃のように自暴自棄のような感じではだかの写真を撮られたりはしていない。女優さんとして映画に出たりしている。渋谷になんていったことはないし、外苑前なんて地名はまったくしらない17歳の高校生だった私も、もうすぐ23歳になる。就職はせず、奇しくも彼女のいる芸能の世界にいる。noranekoを見つけて、もうすぐ6年が経つ。
眠れない日には、恋をした日には、恋を失った日には、どうしようもない日には、何度も見た彼女の写真をまた何度もみる。みるだけでは足りないけど、ほかにどうしようもないから、何度もみる。

私は欲深いから、生きている間に彼女と同じファインダーに入りたい。彼女との繋がりが欲しい。
そのためにはどうしたらいいか、現実的に考えなければならない年齢になったことを、幸せにも思うけれど、不幸にも思う。現実的に考えてしまうと、結果が出てしまうから。

といいつつ私は、6年越しの思いをこのまま燻らせるつもりはさらさらないのだろう。兎丸さん、どうか待っていてください。

6年分の書き損ねたラブレターはもうぐちゃぐちゃで、うまく綴れなくなって、書いても書いても言いたいことが言いきれていない気がしてならないが、きっとこれは彼女が好きでたまらないということの不恰好な証なのだろうと、とりあえず結論づけることにする。

彼女を通じて文章を書いた。その事実がまた私を恍惚とさせる、生き長らえさせる。

私は、彼女になりたかった。

自己満足のための文章だけれど、誰かの目に止まって、なにか感じてもらえたらとても嬉しく思います。
おやすみなさい。

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