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わたしが歌手になりたかったきっかけ



わたしには幼い頃
歌手になりたいと
思ったきっかけがある



もともと
テレビに出てくる
アイドルの真似をして
近所の友達と一緒に
歌って踊るのが好きだった

両親も歌う事が好きで
うちには立派なカラオケマシンと
マイクがあり
大概の有名どころの歌は
歌詞とカセットが付いていて
聞いたことがなくても
さすがは昭和の名曲
ビートルズなどの英語の曲も含め
ランダムに聞いても
直ぐに覚えて歌えた


歌うことは私にとって
とても身近な存在だった


それとは別に
両親との関係にも
大きな影響を受けている



私の父親はいつもは物静かで
口数も少なく
外では人当たりの良い人だった

釣りに連れて行ってくれたり
海沿いの旅館だとか
旅行に連れて行ってくれた事も
ちゃんと覚えてる



本来は優しい人だった



彼に何があったのかは知らない
母親と何があったのかも知らない



いつしか泥酔して
帰ってくるようになり
玄関先で母親が用意した
バケツに向かって吐いている姿を
しょっちゅう見かけるようになった


いつしか週末になると
一日中テレビのある部屋を
一人で占領し
窓という窓を閉め
室内でモクモクとタバコを吸い
酒とつまみを飲みながら
プロレスや野球ばかりを
観るようになった



私には兄弟姉妹が
私合わせて4人いる


アニメを観たい盛りの
子供たちが部屋中にいた


母親も食い下がる
子供たちに30分くらい
アニメを観させてやって欲しいと



機嫌がよければ
見せてくれた事もあった



普段は物静かな父親でも
酔うと気が大きくなり
私達や母親を怒鳴り
時に叩いたり殴ったりした



母親も負けずと言い返してた



そして険悪なムードが漂い始めると
母親は私たちに有無を言わせず
早く寝ろと急かした

二階のベッドの中で
聞きたくもないのに
二人が罵倒し合う声や
母親が殴られ椅子から落ちる音
皿が割れる音が響いてくる



私は耳を塞ぎながら
溢れてくる涙を枕で受け止め
声を出さずに泣くしかなかった

私には幼過ぎて
彼らを止める術がなかった



無力な自分


両親の間に入って
止める事ができない
役立たずな自分



そんな自分が許せなかった


大人になったら
いっぱい勉強して
言葉を学んで
暴力や力尽くで
相手をねじ伏せるのではなく
思いやりのある言葉で
相手を諭し和解できるような
人間になるんだ



そんな事を考えた



父親だけじゃない
母親も私たち子供に手をあげた


彼女は離婚後
一人でパートに出ながら
四人の子供たちを一人で育てた


父親が出て行った
大きな一軒家に大きな庭
その手入れも
一人でやっていた


手一杯過ぎたんだと思う



本来は陽気で
カラオケが大好きで
いつもニコニコしていて
ひまわりのような人だった

それがいつしか
ストレスフルな生活に追われ
眉間に皺を寄せ
顔を見ればガミガミと
口うるさくなった



でも怒るのには
いつも理由があって



例えば私たち子供が
悪さをしたり
嘘をついたり
宿題をやらなかったり
約束を守らなかったり
お金を財布から抜いたり




彼女が怒る原因は私たち子供にあった



ゲンコツで殴られたり
ほっぺを平手打ちされる事もあった


父親は離婚する前
野球のバットで
私たちを殴る時もあったし



そろばん塾に通い始めた頃
うまく指を動かせられず
いつまで経っても進級しない
私に痺れを切らせ
ゴルフのパターで頭を殴られ
行く必要ないと
2回もそろばんを折られた



ある時など
私がやってもいない事を
謝れと言われ
私はやっていないと必死で伝えたのに
お前がやったと決めつけられ
夜中に外に引きずり出され
大きな栗の木に紐でぐるぐる巻きにされ
謝るまで何時間も放置された




5つ下の弟がまだ3歳くらいの時
父親がタバコを吸っている灰皿に置いてあった
吸いかけのタバコを
無邪気に手に取ろうと寄ってきたところを
いきなり弟の手の甲にタバコの火を押しつけた


一言も何も言わずに


もちろん弟は
一瞬何が起きたか
分からないような顔をして
キョトンとしていたけれど
自分の手の甲を見て
丸く真っ赤に皮膚が
焼け溶けているのを見て
泣き叫んでいた


父親は熱いという事を
分からせる為だと言った


弟の手には
いまでも一生消えない火傷跡が
残っている


こんな事
許される事じゃない




今ならそれが分かる


でも
私は体罰を受けるのは
自分達が悪いことをしたから
仕方がないと思っていた



そして岐阜の田舎
他に逃げる場所など
どこにもなかった




だからしつけに対して
間違いだらけの両親から
される事をただ
ごめんなさいと泣きながら
受け入れるしかなかった


正しい家族の在り方を
私は知らずに育った


でも子供ながらに
そんなやり方じゃなくて
もっと優しく言葉で
分からせる方法はないのか



どうしてそれが彼らには
できないのかと思っていた




今なら分かる


彼らには教養がなく
彼らの親にされた事を疑いもせず
自分の子供にもやっていたのだと



子供たちを体罰じゃない方法で
諭す方法も言葉も
彼らは持ち合わせてはいなかった




ただそれだけ




だけどそんなこと
小さな子供の私たちに分かるわけもなく
大人や親は完璧で
神のような存在だと信じていた

わたしはいつしか
口にしようとすると言葉が出なくなり
うまく気持ちを表現できなくなった



何かを口にすると
言い訳をするな!と
頭ごなしに怒鳴られる



そんなことを繰り返しているうちに
私の中で心と体が分裂してしまった


喋ろうとすると
リズムがうまく取れない
そして必ずつんのめる



吃音




この頃の母親は
父親に殴られるたびに
私たち子供を置き去りにして
何度もうちを飛び出していた


10代を超えてからの吃りは
長く続くストレスや
心にダメージを受けたりすることが
要因で発症する


私はその時
10歳〜12歳くらいだった


一番多感な時期だった
でもまだ心の中は子供のまま



自分に何が起きているのか
分からなかった



うまく話せない



喋ろうと思っても
つっかえてしまう



そんな時


小学校の音楽の時間に歌を歌うと
ピタリと吃りがなくなる自分に気づいた




不思議だった



歌っていると気持ちが解放されて
自由になれた


特に感情や気持ちを
歌に込めて歌えば歌うほど
音楽の先生が私を褒めてくれた



今思えばこの先生
ただものじゃなかったなと思う




今でも忘れない



今渡先生




私の親は何かを成し遂げても
純粋にそれを喜んでくれた事も
褒めてくれた事もない



そんな事はやれて当たり前
次にこれをさっさとやれ


母親は草むしりをしながら
私の方を見てもくれず
淡々と言うだけだった



でも今渡先生は
私の目を見て褒めてくれ
みんなの前で歌ってみて欲しい
と言ってくれた




彼が私に自信を取り戻させてくれた



今でも彼には心から感謝している




あと小学2年生になった頃
何気なく母親のことを書いた作文で
金賞を獲った



それ以降も
何か思ったことや感じたことを
作文やコンクールに出品すると
賞を獲ったり褒めて貰える事が多く
それもあの頃の自分には
とても大きな心の支えとなった



自分で感じたことを言葉にして
それを歌として表現する

歌手になる事は
私の存在意義そのものだった




それが私の
歌手になりたかったきっかけ





だから私の曲には
自分の両親に対して
書いている曲がたくさんある




私がどんなに気張った格好で
踊ったり歌っていても
それはその時代の
流行に乗っているだけ

私が歌うメッセージは
とてもシンプル



両親に仲良くして欲しい



家族を大切にして欲しい


私を信じて欲しい

私を愛して欲しい






心の中はずっと幼い頃の
寂しかったわたしのまま 





あれからとても長い時間掛かったけれど
ちゃんと歌手として
メジャーデビューを果たした


岐阜の田舎から出てきた私は
周りから何万回も
止めとけ
歌手なんてなれるわけない
と言われ続けた

でもなれた




自分を疑わず信じ続けたから



もちろんそこに行き着くまでには
私1人では到底辿り付けなかった
たくさんの出会いやサポートがあった



この場を借りて
わたしに出会ってくれた全ての人へ
ありがとう



そして修行のつもりで
何のツテもないまま渡米し
またゼロから仲間を作り
こうして音楽製作が
できるようになるまでにも
途方もない時間と労力と
多くのサポートがあった



改めて
出会ってくださった全ての方々へ
心から感謝します




もっともっと歌手として
責めて行きたいところ
私が人生をかけて
守るべき命ができた事で一変しました


出産と育児に専念すること



またしばらく音楽活動を
お休みさせて頂く事


せっかく波に乗り始めたのに
また一線から身を引かないと
行けなくなった事

大変申し訳ない気持ちでいっぱいです


でも私の判断に後悔はありません


なぜならわたしが一番
そばにいて欲しかった
5-6歳の時期に
私の母親は仕事でずっと
家を開けていて
ずっと寂しかったから
わたしは無理をせず
うちの息子と居たいだけ
一緒にいてあげようと思った



男の子だから
そのうち見向きもされなくなる

今しか息子とこんな風に 
ゆったりした時間など持てない



そういうことも分かっているから
余計この時間が愛おしかった


そして6年が経過し
ようやく息子もキンダーに入り
ぼちぼち歌手としての活動を
始めていきますかというタイミングで
癌が発覚


癌の手術をし
インプラントを入れたまでは
まだ平常心を保てた

でもひと月後に赤黒く変色するほど
胸が炎症を起こし
インプラントを取り出し
乳首も何もかもを失った時

今まで生きてきて
ずっと有った体の一部が無くなり
腕も上がらなくなり
痺れが取れない体になった時
耐えられない悲しみに襲われた


いまはもう髪もほとんど抜け落ち
覚悟がやっとできたけれど
長い髪をばっさり切った時も
精神的に不安定になったし
まだ現実を受け止めきれないでいた


泣きたい時は泣いても良い
弱い自分を認めてあげよう
そう思った瞬間から
に進むしかないのだと
重い腰が動き始めた



そして今
私の頭の中は
癌を克服した先に待つ
新しい音楽制作や
映像製作に携わっている
新しい生き生きした
私の姿が見えてる



今からワクワクしている




この間
皆さんには
aileの My Wayを聴いて
待っていてもらたいです



私が母親を8年前に亡くした時
やっと身籠った子を同時に流産した
生きる気力さえ失っていた
そんな時に
この曲のプロデューサーである
村山晋一郎氏が連絡をくれ
今こそ曲を作ろうよ
一緒に頑張ろうと
声をかけてくれた


自分に鞭を打ち
自分の半生を思い返し
必死に書いた3曲

My Way
Mirror
SAKURA



そのうちの一曲がMy Way


あとの二曲については
また別の機会にお話しします

まだ聞いてない方は
この機会に是非聞いてみて下さい


tunecore.comでデジタル音源
ダウンロード可能です



映像制作や番組制作に
携わっているみなさん
もしエルの楽曲の仕様に関して
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