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世界を獲った父の手をみて、自分の力で食っていくことを考えてみた

あまりにも唐突だが、父の手を見てほしい。

おまんじゅうではありません

関節の骨がなだらかになっていてドラえもんみたいだ。とにかく丸い。
そして、親指は妙な方向にぐにゃりと曲がっている。

木の枝でもありません

これは拳をグーの形に丸めると、ぴったり収まるように変形しているのだ。
なぜそうなっているかというと、拳を握った状態でバンテージを巻いて固定し、ぎゅうぎゅうにグローブをはめ、ミットやサンドバッグを叩いてきたせいだという。

父は一体何者なのか、ここまで聞いてなんとなく想像できたことだろう。
この手になった理由は、父が元ボクサーだからである。

元ボクサー。
私の父は、元WBCJr.フライ級の世界チャンピオンだ。

ボクサーってこわくない?

知り合った人に「うちの父親はボクシングの世界チャンピオンなんだ〜」
と伝えると、反応はだいたい2種類に分かれる。

「え、まじで!! だれ??」
と、ボクシングに詳しくはないがとりあえず名前を知りたがる人。
(そしてボクシング好きじゃない限り知らない)

ふたつめが「え〜!すごい!でもこわそう!」
とビビる人。特に男の人は「ボクサーの一人娘なんて、結婚の挨拶が恐ろしすぎる」と顔を引き攣らせる人が多かった。

私からしたら父はまったく恐い存在ではない。
ビールを片手にテレビの野球を観たり、週に一度絵画教室に通ったりしているふつうの、いじりやすいおやじだ。
だから「こわそう」と言われるたびに、どうにも違和感があった。

私の夫は「父が元ボクサー」と聞くと、単純に「すげ〜!!!」と言って興奮してくれた。単純でよかったと心から思う。
結婚の挨拶もビビることなく、なんならその日のうちに父とふたりでゴルフの打ちっぱなしに行って、父が大事にしていた、うん十万するドライバーを真っ二つにへし折ったりもしたけれど、それでも仲良くなった強メンタルの持ち主である。

ボクサーって聞くと、殴られそうとか思う人はいるのかもしれないけど、
数々の試合を乗り越えてきた本物のボクサーはそんなことしない。
強い人は、ちゃんと優しい。

死刑台に昇る気分

父がボクシングジムでトレーナーをしていたこともあって、私は小さい頃からジムや後楽園ホールを出入りし、屈強で強面な男たちに囲まれて育った。
選手たちはよく自宅に遊びにきてBBQもしていたし、ジムでもバンテージを巻いてもらったりして、可愛がってもらった。

ただ、いつも優しくて元気な選手たちも、試合の前はまったく表情が変わる。
興奮して、顔がガチガチにこわばって、呼吸が荒くなっていた。

一生懸命心を落ち着かせようと、飛び跳ねたり、体を揺らしたり、何度も呼吸を繰り返す。そして最後のミット打ちをして試合の時を待っている。
遊んでくれているお兄さんたちのそんな姿をみると、私の方が緊張して泣きたくなっていた。

以前、父に「試合前はどんな気持ち?」と聞いたことがあった。
ワクワクするとか、緊張するとか、そんな感想が返ってくるのかと思っていたら、父の返事はまったく違った。

「死刑台に昇るような気分」
だった。

「真っ白いスポットライトに向かって歩いて、小さい階段を登って、歓声を浴びてるとさ、死刑台を昇ってるみたいな感覚なんだよなぁ。もうこの四角いリングのなかから逃げられない、檻のなかに入ったらもう終わるまで出られないって思って。恐いっていうのとも違うし。まぁ、受け入れてるんだよな」

自分事として想像すると、一気に背筋が凍った。
緊張や恐怖なんていう一言では表せない、死に向かう気分ってどんなだろう。
ボクシングは死ぬかもしれないスポーツだ。唯一、人を殺しても仕方がないとされるスポーツでもある。

選手たちは、控え室に戻ってくる。
ただし試合前に出た時と同じ顔でいるとは限らない。

顔がぱんぱんに腫れていたり、鼻や顎が折れていたり、血が滴っていたり。
控え室に戻れず、病院に直行する場合もある。
私は、身近な人たちが死ぬ気で戦う姿をたくさん観てきた。
こういうのを本気っていうんだなというのを、たくさん目にした。

自分の力だけで食っていく

今も私は、父がファイトマネーで建てた家に住んでいる。
子供の頃はふつうだったけど、大人になって改めて冷静になると、「戦って得た金で家を建てる」って少年漫画の世界みたいだよなぁとは思う。
なんだか不思議だ。

父は基本的にふざけた性格をしているので
「俺は練習なんかほとんどやんなかったよ!強いから!」
なんて嘯いているけど、練習してないなんて、そんなの、あの手を見たら嘘だってすぐにわかる。
あのまん丸で、大きくて、親ゆびの曲がった手は、ボクシングにすべてをかけていたからできた手だ。

自分の力だけで食っていくというのは、相当な努力と覚悟が必要なこと。
まぁうちの父の場合はその力っていうのが物理的なパワーなわけだけど、それは、別にボクシングに限らずなんにでも当てはまることだと思う。

私だってそうだ。
現在、絵本作家とライターをしながら、小説家を目指している。自分の力ひとつでやっていこうとしている。

大学生の頃は小説家になるために本気だった。
文芸学科に通っていたため、学校の課題でも小説を書いたが、それ以外にも自分のために毎日書きまくっていた。
文豪に憧れていたのもあり、ほとんど手書きの原稿で小説を書いていたため、指は常にペンだこができていたし、手の側面は鉛筆がこすれて黒々としていた。
汚い手だったけど、むしろその手は勲章だった。

それが今はどうだろう?

小説を書くのにパソコンを使うことが多くなったせいではなく、私の手は綺麗になった。
書きすぎて腱鞘炎になるわけでもない。ただ、綺麗なネイルが施されているだけの、ふつうの手だ。
仕事と両立できず、言い訳をしながら、書く時間を作ろうとしない。
情熱は燃やし続けなければ消えてしまうとわかっているのに、木を焚べることから目を背けている。

やっぱり、頑張りはどうしても手に出てしまうものだ。
何もしていないことがバレてしまう。私も目指す道があるなら、たくさん書いて書いて、死ぬ気になって、手を動かし続けなければいけない。

わかっていたのに放置して、30歳をとっくの昔に過ぎてしまった。

結局なにが言いたかったかというと、長年一緒に暮らしてきた父の手を改めてみたら、なんだかすごくボクサーの手をしていたことに気がついたということだ。ただそれだけ。

めちゃくちゃ努力してたんだろうなと思うと同時に、どうしても今の私と比べてしまった。それが、なんだか悔しかった。

だから、ここからまた本気を出してみようと思った。
ボクサーみたいに死ぬ気になるのはは無理でも、
父みたいな不恰好な手を目指して、もう一回頑張ってみたいと思った。


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