見出し画像

はじめてのnote

今さらですが、私もnoteを始めてみることにしました。
文字にすることで、自分を見つめ直すキッカケになったり、振り返りをすることができるかもしれない、と感じたからです。

まずは、自分の生い立ちから、少しずつ書いてみようと思います。


幼い頃の記憶:父の仕事

北海道出身の父と、東京都出身の母との間に、私は三女として生を受けました。
都内の病院で産まれ、埼玉県内の一軒家で育ちました。

当時、父は自営で印刷業を営んでいました。
1階部分が印刷工場になっていて、内階段を上がると2階がわたしたちの居住スペースになっていました。
急な階段で、昇り降りする度に「怖いなぁ」と感じていたのを覚えています。
しかも、階段を昇りきったところに謎の剥製があってね。
(中古住宅だったので、前の持ち主が置いていったのだと思います。)
その剥製が怖さを倍増させていて、本当に階段には怖い記憶しかありません。


毎日、朝早くから印刷機の稼働する大きな音が聞こえ、それが一日止まることはなく、夜遅くまで続いていました。
今はデジタルの時代なので、印刷物のほとんどがデジタル処理されていると思います。
でも、当時はまだアナログの時代。
一つ一つ紙媒体で原稿をおこし、修正したのち、それをフィルムに焼いて、再び修正。
そのフィルムから今度は金属製の薄い大きな板に焼いて、出来上がった「版」にインクをのせて刷る、という感じの工程だったと思います。
(記憶が定かではないので詳細は覚えていません。)

フィルムに焼く工程は工場の一角にある「暗室」で行なっていました。
現像液なんかも置いてあって、何とも言えないツンとするような匂いがします。
暗室なので、当然中は真っ暗闇なのですが、ぼんやりと赤い光に照らされていて、とても不思議な空間でした。
私はその部屋が気に入っていて(異世界のように感じていたのかも)、よく部屋に入ってはいろいろと観察していたのですが、その度に光が悪影響だからと、いつも父に怒られていたのを今でも思い出します。

小学校の高学年から中学生頃になると、時々父の仕事の手伝いをしました。
主には原稿やフィルムの修正作業でしたが、私はその仕事がとても好きでした。
「将来はお父さんの仕事を継ぎたい」と父に伝えたこともありましたが、様々な理由をつけては断られました。

今思えば、紙って塊になると物凄く重たいんですよね。
きっと、そんな過酷な仕事を娘にはさせられないという父親心があったのでしょう。
さらに印刷業界はアナログからデジタルへ移行しつつある時代でしたし、扱うインクや白ガソリンなどが身体に影響するということも、父自身理解していたのでしょうね。

時々、版に余白ができると、父はわたしたちの描いた絵をそこに埋め込んでメモ用紙を作ってくれました。
子供心にはそれが本当に嬉しくて、無理にお願いして作ってもらったこともありました。

刷り上がった印刷物は、規定のサイズに裁断し、梱包してから納品するのですが、余分な切れ端を貯めておくプールみたいに大きな木箱があってね。
その大きな箱に次々と細くカットされた紙の切れ端が貯まっていく様子を見るのが面白くて。
いっぱいになると、上に乗って遊んだりしてました。
(でも、切り口で怪我をするので注意もされましたが。笑)


幼い頃の、父の仕事に対する記憶はそんな感じ。
父はとても不器用な人でしたが(それが私にも遺伝してる気がする)、でも物凄く愛情深い人でもあったと思います。

父に関する他の記憶は、また別の記事で書きますね。
とりあえず、初めて書くnote、今日はここまで。


読んでくださってありがとうございます。
(o^^o)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?