足掻く人。
ひたと満ちる感じ。小満。5月の下旬の始まりでもあって、木から火にバトンタッチだという空気があります。うまく喜ぶためにいろいろやらかしました!
ブログには、個人的な「ぼやき」も含め開示していようと思うのです。ある表現者のメールマガジンにおける宣言を今朝読んで、なんでしょう、「いいわ」と思ったからです。けっこう刻み込んでくる表現でしたが、それでもわたしはその方のアートから眼をそむけることができません。そして、「こういう独白的文章が不快だったらメルマガの配信解除をしてください」と書くにいたる、見えないフォロワーとの関係を再構築したい、という思いに同意します。
わたしのはとても小さな規模のお商売なので、自分が美しいと思うことを言っても言わなくても、さして世の中に影響はありません。しかし、リフレクソロジストとしては暗めの芸風と、ブログの性質についてちょっとひっかかるのは、7月、大学母校の新入生300人に、わたしのこのどちらかというとアウトサイダーなキャリアについてしゃべる機会をいただいていること。もし、雑司が谷十音検索でこのサイトに来てくれて、まだ成人していない人たちに今年44歳になるわたしのぼやき開示がどのように影響を与えてしまうかなどと考えます。でも、ごめんなさいね。考えたら、わたしは就職難時代に就職から眼をそむけていたわけですけれど(そういうキャリアについてお話しますよ)彼女たちの4年後は価値観をいろいろ持たないとこころが崩壊する。そして、お詫びに、学割企画をしようと思います。(名付けて「十音のお茶割り」)
わたしはオーケストラのSNS担当をしていた時1度だけ、自らの電話対応ミスのために個人名をツイッターで上げて糾弾されたことがありました。企業のSNS疲れという言葉も出て来ていた時期ですが、そういうことをしてしまう人を相手に、組織のSNSの中の人として公正公平なことを書いていくのはわたしの性質として無理なことでした。
今でも、SNSにおいては十音と山﨑絢子がじっと対峙することがあります。ひとり部屋なのでイコールであるはずなのですが、十音のほうが山﨑絢子より穏やかで過激な言葉を「嫌い」だと山﨑絢子を責めることがあります。そんなに過激かなあ、自意識過剰じゃないの?と絢子が抗議して、でも商いしているんだから、クライアントに失礼はいけないよ!と十音が返してきます。
でも…5月中十音を閉室してみて、ひとり部屋に本当にひとりで1日中いることの結果なのですが、十音と山﨑絢子の境界線が溶け、どちらかというと山﨑絢子が書く言葉に十音が同意するようになってきました。
個人の攻撃は絶対にしたくないのですが、ぼんやりしたクラスターに対する個人的な考えは書いてしまおう。書かないでいるからこそできるような知り合いは、本当のわたしを知ったら離れていくでしょう。もうそんなまどろっこしいプレイをしているヒマはなくなってしまいました。わたしは決してやさしい手技セラピストではなく、刺激屋です。お節介(介入)には失敗することも多々あります。クライアントが離れていったら小さなセッションルームは閉室するしかない。それは人のこころが離れていったということなのだから、お商売としては失敗ですがそうせざるを得なかったわたしの性質もあります。
マニアックな歩み寄らない姿勢でありながら人に来ていただこうという矛盾をどう突破するのかがここからの十音と山﨑絢子の興味深いところです。
集えるようになったらあそこに行って、ユーモアと皮肉たっぷりのおねえさんのようなおじさんの温かくキビしいトークをききながらステーキを300グラム食べよう、と思っていたお店が、ジョギングで通りかかったら消えていた。40年ぐらい続いていた洋食屋で、すっかりスケルトン状態に戻っていて、テナント募集は「飲食店不可」となっていた。
集えるようになったときには店はないのだ。いつか行こうと思っている店はその「いつか」の数だけ早く消えてしまう。
「いつか」十音さんに行きたいと思っていて、と書いて下さる方の数を数えてみました。その「いつか」の方たちだけでも十音は今までよりも潤います。そしてすごく嫌な言い方ですが、私たちのように小さなお商売にとって「いつか行きたい」という言葉は「今はいかない」と同じ質量でしかありません。
いつかと思っていた方たちは、新型コロナウィルスによって集いを制限されて少しほっとしたところもあるのではないでしょうか。そして十音が閉室して、さらにほっとされたのではないでしょうか。かく言うわたしもあまり会いたくない人に連絡をとらなくてもよくなり、免罪されていると感じます。わかりにくいリフレクソロジストとしての自分を売り込んだり、セッションの営業を頑張ったりしなくてよい、自粛という言葉の甘くて哀しい免罪効能。溺れてしまいそうでした。
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現時点で、自分の仕事において突破しようと足掻いた人と、他人から言われるままに行動せずしかも人の足掻きに好き嫌いで意見を述べるだけしてきた人と、じっと様子見をする人と。アーティストがわたしのなかで場所分けされました。
別に世の中に作品を出すわけでなくても、その場で立ち泳ぎしておられても、足掻く人たちは突出しているので、明確なポジションにいるのですが、あとの2つの位置は、ぼんやりと、少し日和見な沼のような感じ。
あーあ、あんなこと言っちゃって。という空気は、アーティストなら現場にいなくても、インターネット上からも受け取るものではないでしょうか。そしてこの1,2月からこのかた、足掻く人たちは全身にグサグサとその矢を受けながら表現をしてきたと思う。誰が見るの?とか、オンライン嫌い、とか、解り難いよ、とか言われながら。
そしてここは譲って好きでもないオンラインの良さをみつけてみようとか、だって表現したいんだものとか、キミに骨付きはだめなら解りやすく解してさしあげようとか、誰もが見てくれたわけではないが誰かが見てくれたとかいう、小さなエラーアンドトライをひとつひとつ、結晶させてきたと思う。まさに矢降って地固まるですね。十音にも譲れない結晶(結石ではない)ができました。
そんな、肺を病むような時だからこその表現の結晶が足掻いた人の中で輝き始めるのではないかと思いました。免罪符で楽園にいたって、別にだれからも罰されないのに、わたしにはこの状況の中で自尊心を発見したいという欲望がありました。課題というより欲望で、決して褒められたものではないのですが。ひたひたと、よくやった、という自尊感情が小さく満ちる。小満です。
十音の閉室についてはこちら足掻きのひとつについてはこちら。ご予約お待ちしています(いつかはない今ですよ!)
https://ayakoxyamazaki.wixsite.com/reflexology-tone/tewazacaravan
もうひとつの足掻きはこちら。コンテンツ化にどなたかデザインのできる方、力を貸していただけないでしょうか。人の足、壮大すぎました。
https://ayakoxyamazaki.wixsite.com/reflexology-tone/2uchiashi
読んでくださってありがとうございました。
近日、6月からの予定について、お知らせします。
あの、実はビール醸造もやってみています。法に触れない程度です。
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