信州Day201


だれかの祈りに似たリズムのフレーズが湯気と一緒にさーっと流れていったのは、露天風呂から釜無山系の山を見ていた時。
山から風がこちらに向かってきて、顔を冷やすけれど、身体は熱い湯の中でくつろいでいるという最高の「打ち上げ」をしていた時のこと。
外気温はマイナスに近づいていた時刻だけれど、水風呂につかって風の中に立つと、むしろ服を着ているときよりも温かく感じる自分の皮膚に大丈夫だと安心する。わたしの水要素との付き合いも、新しいフェーズに入ったように思う。

6月末に移住してきてから、茅野市湖東笹原というところでずっと古民家再生に関わっている。
今日、その小さな「笹原普請」のほぐしがひと段落ついた。機械でバリバリと壊すのではない、「手壊し」という方法でなるべく木材を残すようにほぐしてきた。
なんてことはない。コロナ期後の建築ラッシュで、指導してくださる大工さんが見つからなくて、仕方なく、しろうとでもできる解体だけ先に進めていただけ。
すごく、時間がかかってしまったし、ほぐしが進むにつれ家自体が頼りない感じになってきて、オーナーである実父は「もう好きなだけやったろう?趣味はもう終わりにしろ」と焦りはじめ、言外に、時には直接的に、自分が思い描いていた「古民家再生」ではない道筋にがっかりしていることを伝えてきた。

一人での作業も多く、面倒を押して記録写真を撮り(手袋を外さなくてはならないし、ピクセル4は息絶える寸前)、インスタグラムに流れてくる早回しのDIY動画に憧れて気ばかり焦る。あとから見る、自分の動き1倍速の、なんとのろいこと!

しかし…これ以外の道は通らせてもらえなかった。
どうあがいても、待ったがかかるし、すすみは速くならなかった。

機は熟して訪れる。持ちこたえてくさらず、粛々とできることを進めるしかできることはないものだ。

明日から、おぎなうという新しい段階に入る。足場が解体された跡地をたいらにしようと雪のちらつく中、ドラム缶でたくさん火を焚いたためスモーク人間のようになってしまった私たちは、とにかく浸かりにいこう、と温泉を目指したのだった夕方前の温泉は空いていて、寒いせいか露天は貸し切り状態だった。湯気と炎は似ている。湯気は漂ったり吹かれて走ったりするが、炎は這ったり舐めたりするようだと思う。
目の前の山に向かって、移住しますんで、とあいさつしたのも寒い季節だったような…と思っていた。

わたしの手を身体の声を聴くために、
わたしの目を他者の背後の真実に触れるために、
わたしの耳が他者の気の揺さぶれを感じ取り、
鼻が機や危険を察知して他者を助けられるよう、
舌がぴったりな言葉を正しく発音できるよう、
そして、わたしの感受性と言葉を、自分を説明するのも良いのですが、より他者の痛みの代筆やことほぐしのために使ってください。
あいだに、間に、持ちこたえるために知識と胆力をつける努力をさせてください。

五感をなるべくクロスして働かせるようにすると、
言いたいことが表せるようになると思う。
そうやって、ことほぐしていくのが十音のしごとだ。
  
自分に問いかけることが祈りだという解釈が好きだ。
山の前で、何度も問いかけてみる。
そういう面では、祈りも呪、でしょうか。
 
ソマティックの大会で高木慶子シスターが仰った「大いなる方を持たないセラピーは必ず破綻します」の「大いなる方」はわたしにとっては五行なのだけど、そういう大いなる、は山や、木々といった自然界の何かに宿ってもらうほうがまなざしが生じるようで好きなのだ。

奇しくも今日、旧暦霜月の終わり。
いよいよ師走。まずは立春まですごい速度で冬が駆けるという感じ。
わたしは五行のまなざしを感じるのが好きで、山に見られながら自分に呪をかけています。


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