誰もしないような

この家の普請にたくさんの方に関わって頂きたいけれど、たくさんの方が関わりやすい普請をするつもりはない ということに気が付いてしまったよ。

ときどころ と名付けたのには、ふつうはしないことをこの家でしながら、世の常識とのギャップや異なりを自分の身体で消化する、つまり「ほぐす」ことをさせてもらえるからで、あるのに、当の自分がこわばり、ずっと身体が痛いことに気がついていました。痛みは「思い凝り」であるとわたしは思っており、思い凝りは執着とも言えるので、もう少しで解き放ちがあるなとも期待していました。

それは「ほぐしをほぐす」の真骨頂。今日は21時すぎまで蚊にたかられながらときどころに居てしまった。お付き合いください。

「みんなで」古民家普請、というのが価値あることだと思っていました。インスタグラム他ネット上の、「みんなで普請」の映像を見る度に、その人望を、指をくわえて見ていたかもしれません。

だがしかし、誰にも手伝ってもらえないオンナ一人の古民家普請てのも、ちょっと面白くないでしょうか。

なんでひとりって、だってオンナのやりたい古民家普請の覇道は、大勢がしたいことではなく、大勢がやりたい王道は、オンナのやりたいことでは全く!ないのでした。仕方がない。共有できないのだから、アタシが一人でやるしかない。共感してくれる人が現れたら助けてもらおう。オンナは考え、「水聴庵ときどころ」の仕様書に、ここでやりたいことではなく、ここでしたくないことを書き留め始めたのでした。

誰もしないような古民家再生をするのでなければ意味がない。こんなに放置されてきた、石の上に土台がのっかっているだけのThe古民家を、ことほぐしやの山﨑絢子が手掛ける意味も、笹原でここが人々に公開される意味もありません(りゅうちゃんに愛想をつかされたわたし一人がここに住めるような、閉じた暮らしを念頭においた仕様とすると思います)。

この家と、奮闘するわたしを、みな長らく哀れみのまなざしで見てきたと思います。建て替えたほうがまし、と言われたこともあるし、自分の考える「ザ古民家再生」とはあまりにかけ離れていてダメだと言われ続けたこともありますし、見た感じあまり器用そうではないわたしと家のコンビをハラハラして眺めたかもしれません。

ずばり、
オンナが一人で手壊しし(厩は除く)、
安全を担保するために垂直と水平と補強は大工さんに頼んだが、
再生と修復はこの家とともに時間を経てきた古い木材(それも笹原産のものが多い)のみで再生した、

ということぐらいでしか、ここのユニークネスは上がらないし、人がこの家を見る哀れみの目は変わらないとわたしは考えています。

ひとりではどうにも持ち上がらないモノがあり、落ちる気力もあって、何度もSOSを発しながらも、救助要請を受け入れてもらうためにこの家をどうしたいか、どう建てるか説明を求められ、ずっと書けないでいました。

解体をしていた時には、「すごいねーここ住むの?(いやお店ですと答えるとみな少しホッとした顔になる)頑張ってね、楽しみだね」、
という具合でしたが、
いざスケルトンになりきり、この家の骨の魅力が出てきて、私の力不足が露見しています。家の迫力(ボロさ)に対して私が弱気に見えるのでしょう。あまりに遅々とした進みと、私自身の表情も暗いのでしょう。通りすがりの方が立ち寄ったりして、色々と自身の思い入れを込めたアドバイスをくださるようになりました。
そこには、素人がぐずぐずと終わりを決めずに暗い顔してやられると気になってしょうがないし、といういらだちも感じられます。

実際、わたしは考えあぐねて(倦ねると書く)はいるのですが、キャッシュ収入がないことを除けばけっこう幸福な時間を過ごしており、この家の経てきた時間に対して自分の技術が及ばぬので、観察して、やってみて、やり直しながら建てているだけです。

また、いろいろなセオリーが通用しないことに直面しています。ここは公共の場になってくるので、住む家の間取りセオリーは通用しませんし、普通の公共施設でもないので新設の公共施設のセオリーも通用しません。古い古材は歪みや非平行だらけなので数字に感覚を足すことが必要です。だから身をおいて感じて、考える時間が長くなります。

でも周りから見ると滞りを感じるのでしょう(わたしも弱気な迷えるひとを演ずることがあります)。最近、「〜しなければだめだ」「あなたの考え方ではできない」というアドバイスをよくいただくようになってきました。それでやっと解ったことは、この家に関してはわたしには「〜したい」というよりも「~だけはしたくない」が先にあって、それを避けて普請が解決するように願っているということ。

わたしはひとりでこの家のほぐし(手壊しと言う)をしていたので、その経験を踏まえてこの家では今後したくないことがはっきりしているのです。
いわば、〜したくない、という考えだけで進めてきました。したくないことを「やらされ」そうになる時には怒り狂いました(もうちょっと、アサーティブであれたらと思います)

みんなが「したらいい」「しろ」ということだいたい同じです。
・新しいまっすぐ水平な木材、ようは合板
・断熱材
・(数字で)みなに説明
・屋根から

これに尽きます。それが古民家再生の王道なのでしょう。

わたしがしたくないことははっきりしています。
・新しい木材購入、ようは新しい合板購入
・最初から化学素材の断熱材いれとく、床固定
・数字と日数で説明
・雨漏りはひどくないのに新しい屋根トタン購入

これに尽きる。環境と経済と身体性すべての理由からわたしの身体が嫌だと言う。

ベニヤ板はまっすぐ水平だが処理に困ります(やまほど処分しました。燃やすと真っ黒な煙が立ち込め気持ち悪い、吸い込むと辛く、細胞が変になりそう)。

手壊ししてこれだけ強い古材をたくさん持っているのに、真っ直ぐではない金具が使えないという理由で新しい角材を買わされるのは理解できない。わたしはきれいな家を建てようと思っていませんし、楽に建てようとは
もっと思っていません。

化学製品の断熱材は劣化すると性能は落ち磨いても機能は回復せず、なおかつ処理にお金がかかります。わたしが死んだらこの家も放置され朽ちるでしょう。その時醜く朽ちないものは、今はまだ必要でないので買いたくないです。大正、昭和の方が体験した笹原の四季を体験し、その問題に処するというのでよいのでは。

デジタルにはいかないところを味わうと得ることが多いから古民家の体調につき合っているのであって、数値化は名づけと同じく思考や感覚を奪うような気がする。そして古民家の組織上、ほかの古民家の数値が応用できない。

つまり。。。この家の普請にたくさんの方に関わって頂きたいけれど、たくさんの方が関わりやすい考えない話し合いも必要ない普請をするつもりはないのですね。

わたしは持っているものに満足しています。これだけ持っているのにさらに新しい材を購入する必要はない。この家で使われてきた笹原の木材の価値と美しさを認めており、それが真っ直ぐや水平でないということは新しい材にお金を払う理由には弱い。この家は今ある古材でいままで建っていたわけで、この家とともに反ったり曲がったりしてきた材から学び、削ったり反対に使ったり隙間を良しとしてこれからも付き合いたい。そういうわたしを面白がって付き合ってくださる方がいたら助かるのだけれど。誰もしないような古民家再生と書きましたが、大勢がやりたくないだろうというだけで、わたしがやりたいということに対して何人かの専門家は多いに面白がり、賛同してくださいます。ただコロナ期を明けてみな忙しく、わたしにも頼り切る予算がありませんでした。みんなで普請する必要はありませんが、頑固者でもメンターは必要だと思います。

わたしはいまある古材を使い切ってからでなければ、新しい木材を買うつもりはありません。ベニヤ板や角材を新しく入手することはありませんきれいな家を建てようとはしていませんまた、楽に建てたいとも思っていません向かうところがはっきりしているなら手間はウェルカム、手間の中で触れた叡智を言葉にしたがっており、割れや汚れがあっても磨いてケアすることで魅力が増すと知っています。

合板と2✕4材で修繕するならだれも最初からこの家に関わらないし、どこでもやれちゃうことなのだと思います。それをする意味はあの家にないと思う。そして、家よお前はそもそも誰のための家なのか。

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