大切な人が亡くなるということ
私は文章を書くのが下手だ。でも、19年間生きてきて一番と言ってもいいほど悲しく、先のことがよくわからなくなってしまったから、拙いながらも文章で残してみようと思った。
この世に生きている以上、ほとんどの人に「大切な人」「お世話になっている人」は居るだろう。普段の生活で、その人が居なくなることを考えることはあるだろうか?私はある。あった、というのが妥当かもしれないが。私が「死」という概念を理解し始めてからずっと、ばあちゃんの死が怖かった。
私の父は単身赴任で家には年に二回しかかえってこなく、母は私が小さい時は病院で介護士、中学に上がったくらいから訪問看護のケアマネージャーとして働いているため、小さい頃からじいちゃんばあちゃんの家で育った。(ここまで書いて、幸せな時間を思い出して苦しくなっている)私の祖父母は優しかった。一回も怒られたことがなかった。そのぶん母さんにはたくさん怒られてしょっちゅう喧嘩してたけど。祖父母はいつも私を褒めてくれて、美味しいご飯、あったかいお風呂、綺麗な布団、今思うと、「幸せだなぁ」って思えるものは全部そろえてくれてた。彼らが私のことを近所に自慢してくれるから、私はそれが嬉しくて、絶対一番になろうって勉強などなんでも頑張ることができた(運動はダメだったけどね)。2人との思い出で真っ先に思い浮かぶのは、母さんが夜勤の日には、3人で2つのベットをくっつけて一緒に寝てた事だ。私が暑がってたりしたら、ばあちゃんがうちわであおいでくれて「気持ちいいねぇ」って話をして、木曜日は「渡る世間は鬼ばかり」を見て、日曜日は大河ドラマを見て、、。あのふわふわの毛布が気持ちよかった。眠れないときには木の木目をみてた。屋根裏をねずみが走った音がうるさかった。枕元に置いてた緑茶が冷たかった。とにかく、今思うと私は今までの人生であの時が一番幸せだった。
その調子で私はどんどん大きくなり、普通の家族とは形が違ってもすごく幸せで、人にも恵まれ、人生すごく楽しかった。高3になって、受験のため半年だけ寮に入った。それでも私はどうしてもばあちゃんのご飯が食べたくて、じいちゃんばあちゃんにも寂しい思いをさせたくなくて、毎週土曜日の夜はご飯を食べるためだけ、1時間だけ家に帰っていた。幸せだった。毎回帰るとこんにゃくの煮物とポテトサラダを作ってくれていた。特別な時にはお好み焼きだった。ゴリゴリの広島県民なのに関西風のお好み焼きで、他のお好み焼きが食べられなくなるくらいに美味しかった。1週間に一度ばあちゃんのご飯を食べる日だけは、私はお腹の限界がくるまでばあちゃんの作ってくれたご飯を沢山食べた。
高校を卒業して、私は小さい頃から決めていた道に進むために上京した。私が上京する3日くらい前、「うちが東京行ったら寂しい?」って洗い物手伝いながら聞いたら、「そりゃ寂しいよ。だって今までずっと一緒だったんじゃもん」って言って泣いた。私はあんなに待ち望んでたはずの上京が、一気に嫌になった。そのころ、コロナの流行り始めの時だったため、一回行ったらもうなかなか戻って来られないよって言われた。本当にそうだった。次帰れたのは12月だった。でも会えない期間も、私は毎日ばあちゃんと電話していた。毎朝、私がアラームを設定した5分後の時間を前日に言っていて、その時間に電話をかけてもらっていた。余裕があれば、朝じゃない時間でも少しだけ電話で話した。家の裏のツツジとか、綺麗な花が咲いた時は写真を送ってくれた。「あやちやんへ、きれいなつツじがさいたょ」みたいな、不慣れな感じだったけどLINEもしてくれてた。今思うと、それも幸せだった。当たり前だと思っていた。やっぱり人間は、なくなって初めて実感するんだなぁ。
12月に家に帰った時は、半月くらい一緒に居れた。コロナのこともあり、2週間は親が数年前に始めたお店の方で寝泊まりしていたため、じいちゃんばあちゃんに会えたのは年が明けてからだった。ばあちゃんのご飯が嬉しかった。「あやちゃーん、ご飯!」って呼ばれるのが嬉しかった。ばあちゃんが台所で料理する音が聞こえるのが嬉しかった。夜、下の階から、じいちゃんとばあちゃんの話し声が聞こえるのが嬉しかった。朝、あったかい味噌汁が出てくるのが嬉しかった。朝ドラみんなで見るのが嬉しかった。オンラインで授業受けてる合間にトイレ行ったりする時にじいちゃんばあちゃんとすれ違ったりするのが嬉しかった。この時は、だいぶ2人と過ごせるありがたさ感じてた。一生この家で家族と暮らしたい。そう思った。でも私は東京でやりたいこともあるし、いつか人は死ぬってことを日常のすごく近くにずっと置いてた。これは最初にも言った通り、ばあちゃんが死ぬのが昔から怖くて仕方なかったのだ。ばあちゃんは結構持病が多かった。何回か入院してたし、いつも薬を沢山飲んでいた。だから、なんでかわからないけどばあちゃんはいつかは死んじゃうってずっと思ってた。ばあちゃんが死んだら、私はどんなに悲しいんだろう。正気を保てるんだろうか。広島の実家の暮らしはどうなるんだろう。ずっと考えていた。それを考えるといつも悲しくなってたけど、やっぱり、「まだ先だよね」と思って自分の気持ちを落ち着かせた。
2021/3/30 私はなんとなく母に電話をかけた。母はお店のことで忙しそうだったけど、「ばあちゃん入院したけぇね」って言った。その時私はすごく取り乱して、「なんでそれが分かった時すぐ言ってくれんかったん!!うちが電話せんかったら言わんかったん??ばあちゃんの調子はどんななん?やばいやつなん??!どうなん?」ってすごく母さんを責めちゃった。良くなかった。母さんは、「大丈夫よ。でも、ばあちゃんも年なんじゃけん、何があるかは分からんよ」って言ってて、それで私はかなり荒れた。その次の日?かな、夜に母さんに電話した。ばあちゃんの調子がどうなのか聞いた。何って言われたのかは覚えてない。私は、「ばあちゃんのことは心配じゃけど、そのことばっかり考えてもしょうがないよね。一旦気持ちを切り替えよう」って思った。でもその日の夜、私はすごく疲れてて髪を乾かしてる途中で、ドライヤーを握ったまま浅い眠りについていた。深夜の2時くらいに、携帯が鳴った。マナーモードだったのに、この時なぜか奇跡的に電話に気づくことができた。でも、こんな時間に電話。嫌な予感しかしなかった。「ばあちゃん危篤だって。帰って来れる?」嫌な予想は的中した。「朝一の新幹線で帰る」そう言って電話を切った。その時、なぜかすごく冷静だった。これを持っていかなければいけない。新幹線の始発は何時だ。これに乗るために何時に家を出ればいいんだ。お葬式用の服は持って行った方がいいのか。とか、30分くらいドタバタして、でもなんだろう、感情的になっちゃうのが怖かったんだと思う。今回ばあちゃんが亡くなるまで私は思ったことを全部文字にしていた。高校時代のアカウントで、15人くらいだけに公開するようにして。これが、わたしの感情を外から一回見れるようにしたことで、感情を爆発させるのを防いでいたのだと思う。人は、この後すごく自分が傷つきそうだなと思った時、予防線というか、感情にロックをかける事ができるんだなと思った。冷静とは言うものの、私は新幹線の中で嗚咽が出るくらい泣いていた。その時も、ばあちゃん助かって欲しいとは思うけど、亡くなった時のことばかり考えてた。薄情だと思うでしょう。自分でも思った。だけど自分の心を守るためには仕方なかった。ここで少しでも期待をしてダメだった時、完全に心が壊れることは自分で分かった。だから自分の心に予防線を張った。多分私の心の予防線は、この時から4月18日、ばあちゃんが亡くなるまでずっと張りっぱなしだった。いや、多分今も張ってるし、これからもずっとこれは取れない。これが大人になるっていう、無邪気ではいられなくなるってことなんだなって思っている。
病院へ一刻も早く行きたかった。でも私は「東京から来た人」だ。そして行き先は病院だ。コロナウイルスを持っている可能性のある人は、すぐには病院に入れない。PCR検査の陰性の証明書が必要だった。私はすごくショックだった。こんなにコロナが憎いって思ったのは初めてだ。母さんの仕事が病院関係のこともあり(お店は副業としてやっている)、高いけど早くPCR検査をしてくれる所を知っていて、3時間くらいで結果を出してもらえて、すぐ私は病院へ向かった。私はばあちゃんを見るのが怖かった。ばあちゃんを見たら、危篤ってことを受け入れざるを得ないから。病室に入ると、ばあちゃんは大きな酸素マスクをつけて、よくドラマで見るような、心拍数とかが出るモニターをつけていた。しんどそうだった。酸素はマックスに入れられてて、ほとんど自分では息してないみたいだった。でも、危篤になってほとんど息ができない中、他の子供や孫の名前は出さなかったのに唯一私の名前だけ呼んでいたばあちゃんにはしっかり声をかけなきゃって思った。「ばあちゃん、彩よ。来たよ。遅くなってごめんね」ばあちゃんは目が開かなかったけど、私の手を強く握り返してくれた。あったかかったなぁ。そこからは奇跡だった。ばあちゃんの調子はそれまで横ばいだったけど、どんどん元気になって、酸素マスクが取れたのだ。ナースステーションでも拍手が起こったくらい、奇跡的な復活だった。それで久しぶりに目を開けられてばあちゃんは私の顔を見てくれた。私どんな顔してたんだろう。でもその時は、希望持っていいかも、ばあちゃんまた家に帰って来れるかもって思った。その日、危篤を抜けたため、コロナの感染予防のため緊急事態以外の面会禁止という病院のルールに従って、17時から面会が禁止になった。それまでも、面会は一度に2人までというルールがあったけど、私はかなり長い時間一緒に居させてもらったし、最後に会えたのも私と母だった。酸素マスクを取ったばかりでまだちょっとしんどそうだけど、結構お話ができた。嬉しかった。夢みたいだった。ばあちゃんは、自分ではモニターが見えないから、「今数値どんな感じ?」ってずっと聞いてきていた。そりゃあ気になるよね。でも数時間前まで危篤患者だった人が自分で自分の心拍数とか気になるってなんか不思議だねって笑った。その日は、「じゃあまた退院の時に来るね。」って言って帰った。今思うと、これが最後のお別れだったんだなぁ。最後だってわかってたらもっと言いたいことあったけど、最後だなんて分かるはずないし、わからなかったからこそ、いつも通りの幸せを感じられたんだなぁって思う。それからは、何回か電話をした。その次の日日にはご飯が食べられるまでに回復していて、お花見弁当を食べたそうだ。早く良くなりたいから、一気に食べたら体に悪いかなと思ってお肉は残したらしい。でもデザートのいちごは食べたよって。ばあちゃんらしいなぁ。もうこの時は、帰って来れると思っていた。予防線は緩めてたかもしれない。その次も、ばあちゃんから電話がかかってきて話した。良くなってるって言ってて、私は本当に嬉しかった。次の日かな?電話をした時、ばあちゃんがなかなか出なくてどうしたんだろうって思ってもう一回電話したら、「周りの人もおるけんね、なかなか電話出られんのよ。ばあちゃんもなんかあったら電話するけん、あやちゃんも何かあったら電話して」もうこのときにはすっかり安心しちゃってた。大部屋に移ったんだなって安心したしね。それで、そのあとはこっちからも連絡しなかったし、向こうからも一回だけかな?電話したけど、もう連絡なかった。でも母さんと電話する度、母さんに、ばあちゃんの調子は?ってずっと聞いてて、「大丈夫よ」ってずっと言ってて、私はそれを聞いてずっと安心してた。でもそれは、私が忙しい時期だから、私を安心させるための優しい嘘だったんだね。
2021/4/18 私は1週間後に本番を控えていたため、ダンスのレッスン中だった。12:00〜15:00までずっと練習していたため、一回も携帯を見ていなかったのだが、レッスンが終わって携帯を見てびっくりというか、なんというか、良く分からなくなった。母からの不在着信とともに、「ばあちゃん急変して亡くなった。気づいたら連絡して」というLINEがきていた。私はなぜか一瞬すごく冷静だった。私は広島にかえらないといけないけど、そうしたら本番に出られないかもしれないし、そのダンスのことで2日後にも大事な予定があるのに私のせいでそれができなくなってしまうかもしれないし、迷惑をかけてしまうって思った。でも周りの優しい人たちに送り出され、私はそこからすぐ家にも帰らずに広島に向かった。道中、涙は止まらなかったが思ったよりも冷静だった。じいちゃんを支えてあげないといけないなとか、あとはなんだろう。何を考えていたのかは分からないけどいろいろと考え事はしていた。人間、守るべき存在があると強くなれるんだなって思った。あとは、やっぱり、ずっと張りっぱなしだった予防線のおかげかな。というか、私は「死」という概念を覚えた時から、この瞬間のための予防線を張っていたのかもしれない。ばあちゃんの死への恐怖は、そうか、今日のための予防線だったんだなって納得した。私はこの日、こんな言い方は良くないかもしれないけど、長年抱えてきた恐怖から解放されたのだ。私と同じで、何か特定のことに恐怖を感じている人は何人も居るのではないかと思う。でもそれはきっと、自分の心を守るための予防線で、その事が自分の中で大きすぎるが故に自分の心を壊しかねないからこそ存在する予防線なのであって、悩む必要は無いと思う。私はその予防線を張っていたおかげで、単にネガティブな方向に落ち込むことを少しではあるが避けられたと思うし、この祖母というとても大切な人の死を、自分が大人になる区切りとして思うことにしようという思考に至れたことは、私の中では大きい。もう甘えられる人はいないんだぞ、とか、こんな最高な人に育てられてきたんだから、私が最高な人間にならなくてどうするんだとかの思考に少しでも至れたんだ。予防線を張っていたおかげだ。多分。
祖母が亡くなってから今日のお葬式までの二日間、私は間違えなく親族のなかで一番泣いていた。でも心が修復不能なところまでならなかっただけ良かったと思うことにする。私は親族代表として、喪主のじいちゃんと一緒にばあちゃんの遺影を持って霊柩車に乗ったり、お通夜の日の夜にはじいちゃんとばあちゃんと3人で布団敷いて寝させてもらったり、親族のみんなは私のばあちゃんに対する気持ちを理解してくれて、孫の私に大事な所をやらせてくれたりして、その気持ちがすごく嬉しかった。私は大事な育ての親を亡くした。この悲しみは癒えるものでもないし、忘れていいものでもない。なんか今、いつもの生活に、ばあちゃんがいない世界線。というものではなく、ばあちゃんが亡くなった世界線。という、まったく別の世界に生まれ変わった気がする。一生この世界で生きなきゃいけないことは理解してるけど、やっぱりたまにちょっと寂しくなるから、こっそり一人で泣こうと思う。
ばあちゃん、ありがとう。ずっとずっと大好きだよ。一緒にいられて幸せだった。ばあちゃんの孫として私は絶対立派になるから、私がそっちに行った時にまたいっぱいお話しようね。本当にありがとう。
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