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【うつ病は財産】①発症~悪化

最初の異変に気づいたのは、いつもなら何とも思わない一言に過剰に反応したことだった。

そして、次の瞬間、ダムが決壊したように感情は爆発し、涙が止まらなくなり取り乱した。
そんな自分自身に驚き、この感情をどうしたらいいのか、自分が突然わからなくなってしまった。
その時にはまだ、自分の心と身体が悲鳴を上げているとは思いもしなかった。

というよりも、自分自身の心や身体のことを省みるということは浮かばなかった。
また、自分自身の「したい」ことよりも、目の前の「しなければならない」ことをこなすことに一生懸命だった。

私はただ疲れているだけだと思い込んだ。
しかし、それからも全く自分自身をコントロールできなくなることがあった。
またその頃から、徐々に様々な症状が現れ始めた…
そして、私は相変わらず、自分自身を責める日々を送っていた。

休日にはドライブやショッピング、お友達とお食事に行ったりしていた。
しかし、好きなことや楽しいと思うことでさえ興味がなくなり、出かけることが億劫になっていた。
そんな中、日ごとに増強する原因の分からない腰痛や背部痛が出現し、仕事中の動作は遅く、そんな自分が腹立たしかった。
背部痛や腰痛はどんな手立てを施しても楽になることはなかった。
また、不眠にも悩まされ、寝つきは悪く、朝方目覚めると眠れなくなることが度々あった。
同時に、食欲は徐々になくなり、一時的に異常なほど増進した。
常に何かを口にしていないと気が済まなくなり、体重が一週間で3㎏増えたが、その後一気に食欲はなくなり、もちろん体重は一気に落ちた。

何でもないことでイライラしたり、何かしていないと落ち着かず、掃除ばかりしていた時期もあった。
気持ちは常に焦り、ときに無気力になったり、自分自身が何処に居るのかもわからないときもあった。

それでも私は、すべては自分が決め、自分が選んだ道なんだと、自分自身を責め続けることから逃げてはいけないと思い込んでいた。
また、そうすることでしか、私は生きていてはいけないとさえ感じていた。

心も身体も限界だった…

そんなある日、ガンで闘病中の父の症状が悪化し再入院となった。
それなのに、私自身のうつ症状も徐々に悪化し全く動けない日があったり、酷い頭痛に悩まされたり集中力が無くなっていった。
父の看病もできず、家族の支えにもなれなかった。
逆にそんな私がいることで余計な心配をかけていた。

そして、私は精神科を受診しようとしたが予約が1ヶ月先しか取れず、最終的に1週間後に予約の取れた心療内科を受診することとなった。

不安と少しの期待で心療内科を受診した。

診断名は、案の定「うつ病 自律神経失調症 不眠症」だった。
抗うつ薬や睡眠薬などを処方された。

これで、良くなる…と思ったが、副作用の説明を受け、仕事のことが気がかりになった。
何とか仕事だけは続けたかったが、医師の説明通り副作用は出現した。
そして、とうとう仕事を休まざるを得なくなったのだった。
私が仕事を「もうこれ以上続けられない」と感じたのは、行動が鈍くなったうえに判断力と理解力が無くなってしまったと気づいたからだ。
看護師として働く以上、最も重要になる能力がなくなり、命を預かる病棟勤務であるため、私のミスが患者やスタッフに及んでしまうことにも強い不安を感じた。
その時の私には、私が休むことで人員が足りなくなるといった考えすら浮かばず、こんな自分をどうしたらいいのかわからなかった。
私は実家に戻ることを決心した。

その頃、父は再手術することになり、前回以上にリスクは高く、更に覚悟することとなった。
そして、再手術後、私たち家族は余命を宣告されたのである。

私はというと、抗うつ薬の副作用である吐き気や食欲不振、眠気に加え、動悸発作や頭痛などの様々な症状が出現し始めた時期だった。
父を看病したいという気持ちは強かったものの、身体は思うように動いてはくれなかった。
毎日でも父に会いに病院へ行きたかったが、それさえも出来なかった。
何とか気分転換しようと友達と出掛けてみたりもしたが、全く落ち着かなかった。
何も出来ない日々が続く中、父はどんどん弱っていった…


私は看護師であるが故に、父を見るだけで理解できることがあり、看護師であることが嫌なときを何度も味わった。
父が亡くなる前日、妹を強制的に父のところへ行かせた。
直感で最後になることがわかったからだろう…

その夜、私は睡眠薬を飲まず、安定剤を飲み布団に入った。

翌日の朝方、私の携帯電話が鳴った…

叔母が言った「急変」の意味がすぐにわかったが、私はかき消そうとしながら病院へと車を走らせた。

父は連れ添った母と、一番信頼していた看護師に看取られ、最期の最後まで父らしくこの世を去った。
そして、主治医は私たち家族が揃い死亡宣告をした。

私は死後の処置をさせてもらった。

それが看護師に戻ることを願ってくれていた父への私が出来る精一杯だった。
私は泣きながら、何度も何度も父に「ありがとう…」と言い、身体を拭いた。
また私は離婚のことやうつ病のことで、父に最後まで心配かけてしまった自分にも後悔した。

それからも私は、来る日も来る日も頓服の安定剤を飲み続けた。
それでも、全く自分をコントロールできない日を過ごすこともあった。
何とか忌明けまで持ち堪えたが、忌明けの法要が過ぎた頃から、私のうつ症状は更に悪化した。

そんな中、私は母とともに父の仕事の引き継ぎや相続など、次から次へやってくる様々な要件をこなさなくてはならなかった。
私は毎日、何をしたらいいのか、何をしているのかも分からず、全てが限界だった。
そして、父のことが少しずつ片づき、私にとって本当の意味での地獄の日々は始まった…

【うつ病は財産】②どん底

うつ病は財産】③気づき

【うつ病は財産】④サイン~感謝

【うつ病は財産】⑤感謝と死

【うつ病は財産】⑥克服のキッカケ

【うつ病は財産】⑦愛の学び

【うつ病は財産】⑧言葉と思考の転換

【うつ病は財産】⑨決意~社会復帰

【うつ病は財産】⑩最後に

#創作大賞2022




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