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The Digital Devil Story        第三巻 転生の終焉          第一章 偽りの聖歌

1 

 十月一日。

 セトの死が確認されてからすでに一月あまりがたった今も、幾体かの悪魔が日本に降臨したという米空軍情報部〈AIF〉からの情報もあって、首都圏には八時以降の夜間外出禁止令が施行されていた。

 新宿駅東口、午前〇時。

 煌々と照明の照りはえる駅舎に、おなじみの酔っぱらいの姿はない。

 幾名かの自衛隊員達が、駅ビルを守るように歩哨に立っているばかりである。

 新宿は悪魔セトの出現地点に近く、セトに従っていた下級悪魔が出現する可能性があるため、自衛隊が出動して警戒にあたっている。

 駅ビルとは少し離れた場所にある、新宿駅西口への連絡通路を遮るように、二人の自衛隊員を乗せた軍用ジープが停車していた。

「日本一の歓楽街といわれた歌舞伎町も、こうなっちゃ、おしまいですな」

 ネオンの消えた歓楽街の方を見ながら、運転席の古参陸曹長がぽつりと言った。

「どうだかな。かなりの数の店が、地下で営業を再開してるって話を聞くぞ」

 助手席の若い二尉が、皮肉な声で言った。

「商売根性はさすがというべきですな。でも、まさか、警察も見て見ぬふりってわけじゃないでしょう?」

「いや、悪魔セトが東京の西部地区を破壊したせいで、首都圏の秩序はむちゃくちゃだ。行き場をなくした若者達の不満を逸らすには、多少のことには目をつぶったほうがいいというのが、政府の本音だろう」

「やれやれ、こっちは命がけでこの街と住民を守ってやっているのに……」

 そう言いかけた陸曹長は、突然口をつぐむと、M3A短機関銃の銃口を連絡通路に向けた。

 古参自衛官の鋭敏な聴覚が、その方向に微かな足音を捉えたのである。

 ぎこちない手つきで、ホルスターからハンドガンを抜き取った中尉が、撃鉄を引き起こす音がやけに大きく響く。

 やがてガード下の暗い通路に姿を現した蒼白い影を目にして、二人は呆然として銃口を下げた。

 胸にまで届くブロンドの髪を軽やかに後ろになびかせながら、白い薄衣をまとった女が、ゆっくりと二人に向かって近づいてくるのである。

 薄衣の下の美しく引きしまった肢体が、二人の目を射た。

(恐ろしいほどの美人だが、精神に異常があるのか?)

 二人の脳裏に、期せずして同じ言葉が浮かぶ。

 だが、まっすぐ前を向いた女の目は、それを声にするにはあまりにも魅力的であった。

「どうしたんです、いったい?」

 陸曹長は運転席から、精いっぱいの優しさを込めた声で尋ねた。

「私はセイレーン」

 女は小鳥がさえずるような美しい声で、自らの名を告げた。

「セイレーンさん? 困りますな、夜間外出禁止令が敷かれていることは、ご存じでしょう?」

「待て、何か事情がおありなのだろう。とにかく保護しなければ」

 二尉が、陸曹長を片腕で制してジープから跳び降りたとき、セイレーンはゆったりとした美しい旋律を口ずさみ始めた。

 思わぬ成り行きに困惑していた二人の目は、ほどなく、夢見るように細められていった。

 どこの国の言葉とも知れぬ複雑な韻を含んだ歌声が、低く、やがて高く、夜風に乗って新宿駅東口一帯に拡散していく。

 新宿駅ビルの方から、三人のやりとりを、けげんそうに見ていた歩哨の自衛隊員達も、一人、また一人と銃口を地面に向けて、天上の声を聞こうとでもするかのように暗い夜空を仰ぎ見る。

 その空を、女を導くように翔ぶ白い鳩の存在には、誰も気づいた様子はなかった。

 

 歌舞伎町。

 ライブハウス『アナンタ』は、古びた雑居ビルの地下にあった。

 タバコの煙の充満する三十坪ほどの空間を、強烈なビートが揺さぶっていた。

 客席は、正面のステージに向かって、すり鉢状になだらかに傾斜している。

 そのステージでは、1980年頃のロンドンにタイムスリップしたようなパンクバンドが、ハードロックを演奏している。

 ほとんどの観客たちは、夜間外出禁止令の出ている街中をうろつくわけにはいかず、徹夜するつもりでこの店にいる。

 客席のあちこちで、腕っぷしに自信のある男達が、音楽そっちのけで、目当ての女の歓心を惹こうと、競い合っていた。中にはドラッグに溺れて床に座り込み、生きているのか、死んでいるのかわからないような男もいる。

 彼らの多くは、悪魔セトの大破壊によって家や家族を失った浮浪者たちである。

 自衛隊の若い二尉が言っていたとおり、ちょっとした喧嘩や乱痴気騒ぎに目をつぶれば、こうした非合法の酒場が、彼らの不満の緩衝材としての役割をはたしているのは、事実であった。


「Hang the Devil!」

 ボーカリストのアドリブに歓声がピークに達したとき、店内に漏れ入ったさわやかな夜風が、充満するタバコの煙をさざめかせた。

 ステージの興奮に乗り遅れたグループが、怪訝そうに入口を振り返る。

 そこには、白鳩を肩にとまらせ、清楚な微笑を 浮かべたセイレーンがいた。驚いた観客の一人の手から、ウィスキーのグラスが滑り落ちた。

 間髪をおかず、店のオーナーの猿渡が入り口にすっとんでいった。

「早く閉めて! 音が外にもれたら、やばいんだよ」

 ノブを引き抜きそうな勢いで、両手で防音ドアを引っ張って閉じた猿渡は、鼻のひしゃげた人好きのする顔をしかめて、この闖入者をまじまじと見つめた。

 今は非合法なライブハウスのオーナーをやっている猿渡だが、大破壊以前は老舗レストランの経営者として、新宿では名の知られた存在であった。

 その彼が破産してしまったのは、大破壊の被災者達に対して、タダで食料を与え続けるという慈善活動を行ったせいであった。

「だれかと約束かい?」

「………」

 黙って首を振るセイレーンを見て舌打ちする猿渡の肩に、いかつい手がかかった。

「俺達の席が、空いてるぜ」

 背の高い、がっしりした体つきの若者が、マニキュアを塗りたくった長髪を指で梳きながら、下品な笑いをセイレーンに向けていた。

 最近の新宿で幅をきかせている、不良グループのリーダーの一人である。

「大野木さん、この娘は……」

「別にマスターの彼女ってわけじゃねえんだろ?」

 立てた小指で額をつつかれて、猿渡の目に怒りが浮かぶ。

(大破壊前なら、こんな野郎、すぐに叩き出してやったのに!)

 猿渡は心の中で吐き捨てた。

 だが、自分達を取り囲むように集まりはじめた大野木の配下を目にすると、猿渡の目には薄い膜が下りた。

(かわいそうに……)

 目を伏せたまま踵を返した猿渡は、唐突に後頭部に心地よい冷気を感じた。

 不良グループに囲まれているセイレーンが、突然、歌をうたい始めたのだ。どこの国のものともわからない複雑な韻を踏んだ言語で。

(どうなっているんだ?)

 耳を聾するばかりのハードロックを押しのけて、セイレーンの歌声はまるで生き物のように猿渡の全身を包み込んだ。

 背骨を電流が駆け抜ける。

(この女を守らなければ。)

 内なる声に促されて、猿渡は眦を決して振り返った。

 だが、普段は人を殴ったり、傷つけることなど屁とも思わぬ男達が、すでにその場に膝をつき、憧憬に満ちた目差しでセイレーンを見あげていた。

 場内にはざわめきが広がっていた。

 マイクも持たないセイレーンの歌声が、PAの大音響に戦いを挑み、悠々とそれを押し返しつつあった。

 騒ぎに気づいたボーカリストが、一層カン高い声をあげる。

 そのとき、客席の間を縫ってミキサー席に近づいてきたオールバックの男が、

「おい、あのバンドの音をすぐに切るんだ!」

 と、横柄に声をかけた。

 むっとして振り返ったミキサーは、相手と目線を交わしたとたん「田代さん!」と、声をあげた。

 田代はまだ二十代だが、幾人かのロック歌手を育てた名プロデューサーとして、若手ミュージシャンの尊敬を集めていた。

 彼が世紀末の世相にあったロックバンドを発掘するために、このところ新宿界隈のライブハウスに出没しているという噂はミキサーも聞いていた。

「でも、お客さんが……」

「お前の目は、ふし穴かよ。見てみろ、バンド演奏を聴いてる客なんか、一人もいないだろ」

 言うなり、田代は腕を伸ばしてPAのマスター電源を切ってしまった。

 メタリックな音声のかき消された場内に、朗々たる歌声が響きわたる。

 衆目の中を、セイレーンは肩から飛び立った白鳩に導かれるように、静かにステージに向かう。

「神は降臨したまう

 来るべき大破壊から、この世界を救うために

 神は守りたまう

 正義の人々を」

 暴力的で、法律を無視し、アウトローと呼ばれている観客達が、いつの間にか日本語に変わった歌詞を、ひたすら従順に唱和しはじめていた。

(こいつあ、とんだ掘り出しものだぜ!)

 田代が、セイレーンの後を追うように階段に足をかけたとたん、すべての物音が聞こえなくなった。

 いや、音ばかりではない。

 視野の中にセイレーンただ一人を残して、深い闇が田代を包み込んでいた。

 セイレーンは、唇を震わせて詠唱を続けている。

 が、一向にその声は耳に届かない。

「これは……」

 いきなり宇宙空間に放り出されたかのような錯覚にとらわれて、田代はその場に屈みこんでしまっていた。

 恐れながら、方々を見回していた田代は、セイレーンの傍らに、二つの赤く輝く光点があるのに気がついた。

 目を凝らすと、それは白い鳩の双眼であることがわかった。

 しばらくの間、品定めするかのように紅の目で田代を見つめていた白鳩は、ゆっくりと翼をはためかせて翔びたつと、彼の前で羽ばたきして空にとどまった。

「お前は?」

 田代は幻覚に惑わされまいとするかのように、厳しい表情を作った。

「神の使いなり」

 白鳩の声は、闇の中におごそかに響いた。

「神? いったい、これはなんのまねだ!」

 怒気混じりの問いには応えようとせず、白鳩はじっと田代を見つめていた。

「セイレーンの使徒となれ」

 そのくちばしが、重々しい声を発した。

「使徒だと?」

「セイレーンのための教団を組織せよ」

「何をばかな……」

 突拍子もない命令を田代が嘲笑うと、白鳩は頭上で翼をうち震わせた。

 その翼から溢れだした、雪のような羽毛が体にまとわりついてきたかと思うと、田代は全身を切り刻まれるような痛みを感じて床を転げまわった。

 しばらくして羽毛が下に落ちつくしたとき、ようやく痛みはひいた。

 膝をついてふらつく体をもたげた田代に、

「教団を組織するのだ。聖歌による、悪魔退散を掲げたセイレーンの教団を!」

 凛とした声が再び告げた。

「……分かった」

 恐怖とそれにまさる畏怖の念が、田代を頷かせていた。

「ひとつだけ教えてくれ、彼女はいったい?」

 萎える心を奮い立たせてセイレーンを指さす田代に、

「セイレーンもまた神の使いなり」

 威丈高に伝えると、白鳩は灰色のくちばしで田代の額をしたたかについばんだ。

 アウッ

 悲鳴をあげてのけぞる田代に、

「万が一にも逆らう心が芽生えれば、お前の体はその傷から朽ちはててゆくことになろう」

 冷ややかに告げると、白鳩はセイレーンの肩に舞い戻っていった。

 闇は去った。

 場内には、先ほどまでと変わらぬセイレーンの歌声が流れている。

(幻……だったのか?)

 胸をなでおろした田代は、眉間に鈍い痛みを感じてなにげなく手をあてた。

 すると、ぬるりとした感触が伝わってきた。

(まさか……。)

 血のついた掌をかざしたまま不安げに顔をあげると、セイレーンの歌声に唱和する人々をよそに、大野木と猿渡が、やはり額から血の糸をしたたらせて、呆然と突っ立っていた。



2 

 セイレーンが出現した翌日。十月二日は、夏のように暑い一日になった。

 ここは、横浜市、新子安。

 臨海工業地帯の中央にあって、京浜国道にそって大手メーカーの社宅やアパートがずらりと並ぶ。その中に、塗装のはげ落ちた、古びた三階建てのアパートがあった。

 薄汚れたレースのカーテンを透過した西日が、2DKの部屋を焦がしている。

 前の住人が残していった古いエアコンは、苦しそうに唸るばかりで、部屋は少しも涼しくならない。

「ちくしょう」

 ベッドの上に座り込んだ室町は、握りつぶしたタバコのカートンを、エアコンに向かって投げつけた。

 閉め切った窓ガラスの外で、狭いベランダに吊るした女物のハンカチが、エアコンの室外機の風を受けて揺れている。

 一月前まで同棲していた、塩野悦子のものである。

 たまに仕事をするだけで、男達の間を渡り歩いていた悦子をくどいて、一緒に暮らしはじめたのは昨年の夏、室町が高校二年のときであった。

 もともと勉強が大嫌いで、警察に補導され、何度も停学をくらっていた室町は、それをきっかけに高校を辞めて、工作機械の工場で働きはじめた。

 日給は五千円。

 気の向いたときにウェイトレスをして働く悦子の収入と合わせれば、そこそこの暮らしは営むことができた。

 が、そんな暮らしは長く続かなかった。

 やがて悦子がホステスとして高収入を得るようになったころから、二人の関係はぎくしゃくし始めた。

 室町の暴力癖が、さらにそれに輪をかけた。

 そして一月前、悦子は室町が勤めに出ている隙に、彼の預金通帳を含むありったけの荷物を持って、家を出て行った。

 悦子が持っていくのを忘れたハンカチをそのままにして、室町が以前のとおりの工員暮らしを続けているのは、ひょっとしたら彼女が戻ってくるかもしれないという、淡い期待を抱いていたからである。

 だが昨日、その期待は見事に裏切られた。

 悪友の一人が、横浜のカラオケバーで働く悦子に、すでに新しい恋人がいることを告げたのだ。

「ちくしょう」

 吐き捨てるように言うと、室町は蒲団の下に手を滑りこませた。

 昨夜、ありたけの金をはたいて買ったアーミーナイフの、ずしりとした感触が伝わってくる。

(今夜、始末をつけてやる。今夜、お前を地獄に送ってやる)

 銀光を放つ刃に見入る室町の頬に、ふいに生臭い風が吹きつけてきた。

 ふと、天井を振り仰いだ室町の顔が恐怖に歪んだ。

 天井から湧いて出たとしかいいようのない無数の目が、瞬きしながら彼を見つめているのである。

 ウワッ!

 顔から血の気がひき、室町は仰向けにひっくり返った。

 そのとき彼の頭蓋に、奇妙な親しみを込めた声が響いてきた。

(友よ、何を恐れることがある)

「……?」

 室町は恐怖で全身が強ばり、声を出すこともできなかった。

(私は、愚かな人間どもを思いのままに殺し、存分に破壊を楽しむことのできる力をお前に与えてやろうというのだ)

「お、お前はだれだ!」

(わが名はラルヴァ)

「ラルヴァ?」

(われらは、人の憎しみと怒りを食べて生きている魔族だ。類まれな憎しみを心に宿すお前に、取り憑かせてもらいたいのだ)

 おもねるような声を聞くうちに、室町の心から徐々に恐怖が取り除かれていった。

(お前の憎しみは、女一人を殺したところで収まるものではないだろう? われらと手を組めば、お前は比類なき力を手にすることができるぞ)

「どうせ死ぬ気でいたんだ。取り憑きたきゃ、勝手に取っ憑くがいいさ」

 投げやりに頷いた瞬間、無数の目が天井から浮き出したかと思うと、鋭い銀色の光を発する二対の大きな目だけを残して、それらは室町の体に吸い込まれるように消えた。


   3

 お茶の水。

 神田川をはさんでニコライ堂と向かい合う位置に、東京インターナショナル・ホスピタルがある。

 この病院が、日本におけるCIAの牙城の一つであり、大使館なみの治外法権を有していることを知る人は少ない。

 その一室。

「少し暑いね。クーラーを入れようか?」

 そう言いながら、開け放ったガラス窓に手をかけた中島に、

「そのままにしておいて。いろんな音を聞いていたいの」

 リクライニングベッドに半身を起こした弓子が、はにかんだ声で応じる。

 両目を覆いつくすように巻かれた包帯の下の形のいい唇が、微笑をうかべている。

 静止衛星の軌道からの奇跡的な生還をはたした二人を、この病院に入れたのは、チャールズ・フィード教授である。

 無論フィードの狙いは、中島の存在を日本政府の目から隠すことにあった。

 中島は、悪魔セトを滅ぼした英雄であると同時に、悪魔召喚のプログラムを作った罪人でもある。

 世間にその存在を知られれば、どのような災いが二人に降りかかるか、フィードにも予測できない。

 だが、それと同じくらい気がかりなことがある。最近になって、弓子の症状は、必ずしも楽観できるものではないことが明らかになった。

 中島によって悪魔の下僕とされ、弓子の力によって葬られた、小原という美しい女性教師がいた。彼女の怨みのこもった体液を浴びた弓子の目の水晶体は、すでにその機能を失っていた。

 しかも眼底に巣くう毒は、幾度かの手術を施したにもかかわらず、愛らしい弓子の顔に不似合いな痣を、広げつつあった。

 現代医学では、その進行を止めることはできなかった。

 弓子が自分自身の変貌を目にすることができないのは、むしろありがたいことかもしれない。


「朱実君とこうやってすごせるなんて、まるで夢みたいね」

 弓子の声は、銀の鈴のようにあまい。

(夢だったら、どんなにいいか…)

 中島は、弓子から目をそらせた。

 会話の間を縫うように、窓からの秋風が二人の髪をさらりとなでてゆく。

「ねえ朱実君、お父様に無事でいることを知らせてあげるべきじゃないの?」

 弓子が、ふと思い出したように言う。

「だめさ。名のりをあげれば、父は、悪魔の標的にされるかもしれない。おふくろのように…」

「それは違うと思うの。私の両親は----」

「何か聴くかい?」

 中島は、やんわりと弓子の言葉をさえぎると、オーディオのスイッチを入れた。

 弓子もそれ以上、中島の心に立ち入ろうとはせず、「朱実君の好きな曲を」と囁くように告げた。

 荘重なフルートの調べが、病室に広がっていく。 

「これ、なんていう曲だっけ?」

「春の祭典」

「ストラヴィンスキーの曲ね。あなたがクラシックが好きだなんて知らなかったわ」

「演奏しているヒューバート・ローズは、ジャズ・ミュージシャンだよ」

「そうなんだ……ねえ、もっとそばに来てよ」

 中島は、ベッドの脇に膝をついて音楽に聴き入っている。その中島を求めて空に這わせた弓子の手が、中島の頬に触れる。

「もう一度、朱実君を見てみたいな」

 献身的な美貌の付きそい人に対する、看護婦達の羨望の声を思い出しながら、弓子は吐息をついた。

 それは弓子にとって誇らしいと同時に、重荷でもあった。

「もう無理なのね……」

 寂しそうな声がいう。

「そんなことはないさ」

「でも……」

 次の瞬間、中島は弓子の唇にやさしく唇を押し当てて、彼女の言葉を封じた。

(どんな姿になろうと、必ず幸せにしてやらなければ……)

 贖罪の気持ちに自らを責めたてる中島を、窓の外を舞う白い鳩がじっと見つめていた。


   4

 その夜のことである。

 ここは国会議事堂があり、日本の政治の中心地である永田町。

 上院議長公邸に隣接している八階建てのビルを、コオロギの声が取り巻いている。

 与党・自由党幹事長を務める太田の個人事務所は、そのビルの二階にあった。

「太田さん、今こそ悪魔対策に名をかりて治安維持法を成立させる、またとないチャンスなのですぞ。党内と野党の説得をよろしく頼みます」

 有力政治家の磯村が、野太い声で言った。

「やりたきゃ、君が勝手にやればよかろう」

 太田は投げやりに返事をした。彼の吐く息は、強い酒の匂いと微かな腐敗臭がした。

 太田はセトの下僕である毒蛇アピぺの力を借りて、多くの政敵を操り、葬ってきた。

 だが首相の座をめざすうえで最大のライバルであった浜野外相を暗殺したとき、皮肉にもアピぺは太田自身に取り憑いてしまった。

 セトが死んだ後、アピぺの活動は著しく低下していた。しかし、アピぺに憑依された人間は、遅かれ早かれその毒に侵されて死んでゆく。

 太田の目には、腐敗した浜野外相の死体が焼きついていた。

 死の恐怖と戦いながらも、いまだに幹事長の地位にしがみつく太田の精神力は、むしろ見事というべきかもしれない。

 だがこの数日、さすがの太田も、自らの野心に翳りが生じるのを感じていた。

「太田さん、真面目に聞いてください!」

 磯村は応接テーブルに拳を叩きつけた。その震動で、ウイスキーグラスが浮きあがった。

「浜野も藤田も死んだ! 黙っとっても次は自分だと思っとるんだろうが、甘いですぞ。あんたがやる気を見せんかぎり、中内首相は、もう一期、自分が総理大臣をやるつもりだ。私のグループのがバックアップすれば、浜野のパートナーだった鹿俣大臣も、総理になる可能性がある!」

 興奮したふりをしながら、さりげなく磯村は自分を売り込んでいる。まことに政治家とは、したたかな生き物である。 

 だが太田は磯村の意図などおかまいなしに、濁った目で外の闇を見つめるばかりだ。

 さすがに磯村も気勢をそがれたようだ。

「お疲れのご様子ですな。悪魔も去ったことだし、当分静養なされてはいかがです?」

 磯村は、捨てゼリフを残して席を立った。


「悪魔も去っただと? たわけめが。現にこのわしに取り憑いておる!」

 ぼやきながら、一息にグラスのウィスキーを飲みほした太田は、コツコツと規則正しくガラス窓を叩く音を耳にした。

「……?」

 不審そうに頭を巡らせると、深夜だというのに、窓の外に一羽の白い鳩がいる。

 その二つの赤い目が、じっと太田を見つめている。

「驚かしやがって」

 太田は、席を立ってガラス窓を開け放った。

 だが白鳩は逃げるどころか、部屋の中に入ってきて、小馬鹿にしたように太田の顔にまとわりついてきた。

「くそっ」

 太田はよろめきながら、ウイスキーグラスをつかんで、それで鳩を殴ろうとした。だが、

「静まれ、死にたくなければな」

 床に舞い降りた白鳩は、その小さなくちばしから、人の声を発した。

「お、おのれ、悪魔だな!」

 威勢のいい声をあげたものの、太田の膝頭はがくがくと震えはじめている。

「案ずることはない。私は、お前を救うためにやってきた」

 鳩は太田をじっと見つめて、低い声で言った。

「救うためだと?」

 太田が身を乗り出すと、いきなり舞い上がった白鳩は、足の爪を、太田のせり出した腹に食い込ませ、深々とくちばしを胸部に突き入れた。

 グウッ

 太田は、身動きもできずに悲鳴をあげる。

 しばらくして、白鳩がくちばしを引き抜くと、頭部を食いちぎられて身をくねらせる小蛇〈アピぺ〉が、銜えられていた。

 やすやすとその蛇を呑み込んだ白鳩は、間髪をおかずに太田の喉元から、もう一匹のアピぺを抉り出す。

 太田はショックで床にへたり込んでいた。しかし、彼の体には、くちばしをねじ入れた痕跡など、どこにも見当たらなかった。

「いつまで、呆然としているつもりだ?」

 執務デスクの上から、白鳩が尊大に語りかける。

「私は……礼を言うべきなのだろうな」

 太田は喉元をなでながら、かすれた声で呟いた。

「これから、私のために働いてくれれば、それで十分だ」

「何をしろというのだ?」

「政権を取り、自らの支配をより強固なものにすることだけを考えておればよい。指示は必要に応じて私が伝えよう」

「お前はいったい?」

「私は悪魔などではない。神の使いと心得よ」

 闇の中をいずこへともなく翔び去った白鳩の声の残響が、開け放った窓から流れ入るコオロギの声にまぎれていった。


〈冒頭の写真は、陸上自衛隊の写真集より〉