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デス・ヘッド Death's Head

第六章 Split Personality
 
 

 
 その週の土曜日、フィリピン沖で発生した台風の接近にともなって、二ヶ月の間紀伊半島を覆い尽くしていた高気圧がついに後退して、西の空には分厚い雨雲が湧き出していた。
 赤松母子の葬儀が行われたのは、その日の午後であった。
「同学年の子供が亡くなったのだから、あなたも葬儀に出席したほうがいいわ」と、加奈子は娘に強く勧めたのだが、ゆかりは頑として受けつけなかった。
 しかもゆかりは、二人が亡くなった日になにがあったのかをまったく話さなかったので、加奈子は子供たちの諍いがあの事故の遠因となっていることさえ知らなかった。
 県道から鹿田の中心部に続く、曲がりくねった細い道を行くと、茶畑の向こうに築地をめぐらせた赤松家の屋敷が見えてくる。
 地元の旧家だけあって、集まってきた人の数も多く、加奈子の前にもたくさんの人の列ができていた。
 木造りの大きな門をくぐると、入ったところに柿の木が生えていて、その下にテントを張って弔問客の受付をしていた。
 そして記帳する段になって、受付をしている女性が北条靖の母親の美千代だと初めて気がついた。
 だが美千代は、加奈子とは目をあわそうともせず、弔問客のリストに目を通している。
 彼女の反応に、加奈子は少し傷ついた。
 子供を助けたことを感謝してもらいたいとは思わないが、せめて声をかけあうくらいの関係にはなりたかった。
 けれども美千代には、その気持ちは通じないのだと思った。
 気をとりなおして記帳を終え、前を歩く人の列に従っていくと、参列者は中庭に集まっていた。
 その庭に面した座敷に棺を安置して、菩提寺の住職が読経している。
 棺の上には、ありし日の二人の写真が掲げられていた。
 ゆかりが赤松秀行に苛められたと聞いて反感を抱いたこともあったが、こうして二人の写真を目にすると、やはり深い同情を覚えざるをえない。
 ちょうどそのとき、笠縫小学校の子供たち三十名あまりが、先生に引率されてやってきた。
 信吾がみんなといっしょに、遺影に頭を下げているのを見ると、どうしてゆかりはもっと優しくなれないのかと、思わずにはいられない。
 小学生たちはすぐに退出して、一般の焼香が始まったが、去り際に信吾が、なにか言いたげにチラッとこちらを見たのが気になった。
 やがて焼香の順番がまわってきて、霊前で手を合わせたとき、悄然として棺のそばに座っていた男が、隣の女性に何事かを耳打ちされて、ふいに険しい目で加奈子を睨みつけた。
 おそらく秀行の父親なのだろう。妻子を亡くしたことには同情するが、そんな目で見られる謂れはない。
 早々に立ち去ろうとすると、男は人目も構わず庭に飛び降り、サンダルをつっかけて加奈子の後を追いかけてきた。
「ちょっと待った。あんたが、城戸さんやな?」
 男は、酒臭い息を吐きながら言った。
「はい。このたびはどうも……」
 加奈子は、腹が立つのを堪えて頭をさげた。
 すると男は、加奈子の挨拶を遮って、太い声で言った。
「社交辞令は結構や。土下座して、女房と子供に謝ってもらおうか」
 剣呑なやりとりに、まわりの人々は動きを止めて、二人の方を見やった。
「奥さまと息子さんは本当にお気の毒だと思いますが、どうして私が謝らなければなりませんの?」
 加奈子は、カッとして言い返した。
「あんたの娘のせいで、こんなことになったんやないか」
 男は顔をグッと突きだして、血走った目で加奈子を睨みつけた。
「どういうことですか?」
「とぼけるな。あんたの娘が、うちの息子に怪我をさせよったで、病院に行く途中で事故に遭うたんや。女房と息子は、あんたの娘に殺されたのも同じや」
 男は、太い指を突きつけて、わめいた。
 加奈子はうろたえた。
 ゆかりは、一言もそんな話はしなかった。
 もし、本当に男の言うとおりだとすれば、保護者である自分にも責任がある。どうしてゆかりは、なにも話してくれなかったのか。
「なんとか、言うたらどうや」
 男の声は、もはや怒号に近かった。
 弔問客たちは二人のまわりを取り囲み、責めるように加奈子をじっと見つめている。
 ドクンドクンと心臓が跳ねあがり、抗弁できずにそこにへたりこみそうになったとき、「赤松さん、それは違うんな」と言いながら、人垣をかきわけて北条美千代が進みでた。
「なにが違うんや?」
「うちの子もあの事故に巻きこまれたもんで、何があったかを調べたのよ。そしたら、うちの子と秀行くんが、蛇を殺してゆかりちゃんを追いまわしたのが、そもそもの原因らしいとわかった。悪いのはこっちよ」
「なんやて?」
 思いがけない事実を知らされて、男はブルブルと全身を震わせた。
「こんなところで、恥をさらすのはやめましょ。黙って、二人の冥福を祈りましょうに」
 美千代は戒めるように言うと、受付の方に引き返して行った。
「ちょっと待て!」
 錯乱して、美千代の後を追いかけようとした男は、まわりの人々に抱きとめられて、家の中に連れていかれた。
 この一連のやりとりで、人々の加奈子を見る目は百八十度変わって同情的なものになってしまったのだから現金なものだ。
 加奈子は感謝する一方で大いに驚き、美千代のところに行った。
 そろそろ弔問客が途切れたので、美千代は集まった香典と、弔問客のリストを見比べているところであった。
「さきほどは、ありがとうございました」
 加奈子がそう言って頭をさげると、美千代は厳しい顔をしたままうなずいた。
「礼をいうのは、こっちの方や。あんたのお蔭で、うちの息子は命拾いをしたんやから」
「靖くんたちとの間に、そんなことがあったなんて少しも知りませんでした。申し訳ありません」
「なにも謝ることはあらへん。そやから、子供のケンカに親が口を出したらいかんのや。子供がなにを考えて、なにをしとるかなんて、親はちょっともわからへんでな」
 美千代は加奈子を見つめて、ニコッと笑った。
 いつか北条家に抗議に行ったときのことを思いだして、加奈子は顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 と、美千代は急に真面目な顔になって立ち上がり、加奈子の耳元に口を寄せて囁いた。
「あんた、津田絹子さんと、つきおうてるそうやな?」
「はい……」
 なぜそんなことをと言いかけて美千代を見ると、その顔つきがあまりに真剣なので、加奈子は言葉を呑み込んだ。
「あの人は笠縫では一番の金持ちやし、町議会や役場にも子分がたくさんおる。そやけど、とかくの噂がある人でなあ。娘さんがあの人とつきあうのは考えもんや。あの人は外見はええけど、心の中は鬼や」
「えっ? どういうことですか?」
「昔、あの人のために……」
 声を潜めて美千代がなにか言いかけたとき、庭の砂利を踏む音がした。
 振り向くと、さっき親族席に座っていた男の一人が、タバコをふかしながらそばに立っていた。
 ただ単に外の空気を吸いに来ただけかもしれないが、二人の話を盗み聞いていたとしても、おかしくはない様子であった。
「孝さん、なんか用事かな?」
 美千代は話を中断して、男に声をかけた。
「そろそろ焼香が終わる。坊さんを送ったら、関係者は焼き場に行くで、あんたも家に入ってんか」
「ここを片付けたら行くで、もうちょっと待って」
「わかった。よろしゅう頼むわ」
 男は吸いかけのタバコを地面に投げ捨てると、加奈子に意味ありげな一瞥をくれて、去って行った。
 男が家の中に入るのを見届けてから、美千代は小さな声で囁いた。
「あの男は町会議員で、津田さんの子分みたいなもんや。話の途中で悪いけど、田舎では言うてええことと、悪いことがあるんでなあ」
 そう言うと、美千代はもう加奈子の方を見ようとはせずに、机の上を整理しはじめた。
 

 
 美千代の話は、加奈子の心に潜んでいた漠然とした疑惑に、はっきりとした形を与えた。
 彼女の言うことが本当か、単なる噂話かはわからない。だが、美千代自身は絹子を悪人と信じきっていることは疑いなかった。
 彼女は、なにを言おうとしていたのか。
 昔、絹子はなにをしたというのか。
 いったん家に帰って着替えた加奈子は、ただ一人の友人である田村早苗に電話をかけて、絹子のことについて教えて欲しいと頼んだ。
 すると早苗はしばらく考えこんだ後で、ようやく口を開いた。
「あんたは他所から来た人やで、なんにも知らんのも無理はないなあ。けど、津田さんのことについては、私はなんにもよお言わんわ」
「そうしたら、せめて誰に訊けばいいかを、教えてください。お願いです」
「あんたは、松井さんを介護してるやろ。あの人なら、話してくれるかもしれへん」
 そう言うと、早苗は電話を切ってしまった。
 そういえば先日、松井は津田正弘と面識があるような話をしていた。だとしたら、絹子のことを知っていても不思議ではない。
 加奈子はすがるような思いで、車にとび乗った。
 
 いつものように、ベッドに座りこんでコップ酒をあおっていた松井は、加奈子の突然の訪問を喜びながらも、「いったいどういう風の吹き回しや?」と驚いた。
「実は、お願いがあるんです」
「あらたまって、なんや?」
「はい。津田絹子さんのことで、なにかご存じのことがあったら、教えていただけないでしょうか」
 すると松井は急に機嫌が悪くなり、いままで見せたことのないような厳しい顔をして、「なんで、絹子さんのことを知りたいのや?」と訊き返してきた。
 加奈子はちょっと迷ったものの、すべてを打ち明けるしかないと決断した。
「津田さんと私とは、血がつながっているらしいんです。でも私は津田さんのことをなにも知らなくて、困ったことが起きているんです」
「なんやて?」
 松井は目を見開いて、まじまじと加奈子を見つめた。
「どおりで、初めて見たときに昔のあの人に似とると思たわ。そのつてで、笠縫に引っ越してきたんか?」
「いいえ。こちらに来て、初めてわかったんです。だから、なおさら津田さんのことを知りたいんです。お願いです」
 加奈子は両手をついて、畳に額をすりつけるようにして懇願した。
 しばらく腕を組んで考えこんでいた松井は、一息にコップの酒を飲み干すと、おもむろに口を開いた。
「あんた、わしと絹子さんの関係を知ったうえで訊きにきたのか?」
「いいえ。松井さんなら話してくださるかもしれないという人がいたんです」
「そうか……では話してやろう。ことのはじまりは昭和十七年、いよいよ太平洋戦争が激しゅうなったとき、実業学校の教師をしていたわしは、陸軍の歩兵として満州に出征することになった。そのときに絹子と婚約したのや」
「お二人が、婚約?」
 思いもかけない話に、加奈子は松井を凝視した。
「いまのわしはゴミみたいなもんやけど、六十五年前はそうでもなかった。当時この笠縫村で京都帝大を卒業した奴は、わし一人しかおらんだ。そやから村一番の資産家の娘と、秀才の婚約ちゅうのは、そう不釣合いなものではなかったのさ」
 一息にそう言うと、松井はちょっと遠い目をして、再び話しはじめた。
「当時の満州は、それほど危険な地域ではなかった。ソ連とは不可侵条約を結んどったから、戦う相手は匪賊と呼ばれていたゲリラだけや。最初は暇でしょうがなかった。
 しかしアメリカが反撃してくると、兵隊も武器も次々に南方に送られていった。昭和二十年の八月にソ連の戦車部隊が攻めてきたとき、わしらは手榴弾と銃だけで迎え撃つしかなかった。そのときの戦闘で足をやられてシベリヤの収容所に送りこまれたんや。
 厳寒のシベリヤで仲間が次々に死んでいくのを見て、わしはソ連兵に待遇を改善してくれと交渉した。それで要注意人物とみなされて、ようやく復員できたのは昭和二十九年の春のことさ。
 ところが収容所におる間に、わしは戦死したことにされてしもたんや。
 それを信じた絹子は、一生独身を通そうとしたらしいが、両親に説得されて、とうとう正弘と結婚した。
 しかしわしも、シベリヤの収容所でずっと絹子のことだけを思うて生き延びてきたんや。せめて一回くらい会いたいと思うて、絹子を田丸城址に呼び出した。会うたというても、わしが留守の間になにがあったか、わしがシベリヤでどんな暮らしをしていたかを話しただけさ」
 松井の話し方は淡々としていたけれども、いつのまにか涙が溢れて酒焼けした頬を濡らしていた。
「ところが、それを伝え聞いた正弘が狂いおった。もともと、自分が代役として結婚したという意識があったせいかもしれん。自分は絹子に愛されていないと思いこみ、ちょっとでも自分に好意をよせる女がおったら、片っ端から手をつけた。同僚の女教師、戦争未亡人、特に同じ在所の教え子を妊娠させたのはまずかった。娘の母親が妊娠に気づいたときはもう六ヶ月で、堕胎することはむつかしかった。娘の父親や兄が、津田家に怒鳴りこんだのは、昭和三十年の夏やった。
 その翌々日、正弘の子供を宿した娘が、突然血を吐いて亡くなった。もちろん腹の子供も生きてはおれん。その初七日も終わらんうちに、その娘の父親が工事用トラックに轢かれて亡くなったのや。あれは気の毒やった。なにしろ日照り続きの暑い夏でな。家族が葬式の準備ができんものやから、亡骸が腐って嫌な臭いがしとった。しかもその翌週には兄が畑で怪我をして、傷口から破傷風菌が入って死んだ。
 それだけでは終わらへんだ。正弘と関係があった女教師や未亡人の家族までもが、次々に不慮の死をとげて、絹子が呪いをかけたという噂が広がった。言いだしたのは、赤松幸利という男で、亡くなった赤松秀行の曾祖父や」
 赤松家と絹子の不思議な因縁を知って、加奈子は驚いた。
「あの年は日照りのせいもあって、作物泥棒が横行しておってな、赤松幸利は畑を見まわるために、夜中に自転車に乗ってでかける途中で、絹子が神社に入っていくのを見かけたんや」
「でも、神社の入り口は山の中ですよ。道路から見えるような場所では……」
「ああ、昭和三十年の事件があってから、今のようにしたのや。昔は、あんたの家がある場所に神社の拝殿があって、そこから山の中まで参道が続いていたのや」
「なんですって?」
 加奈子は、ただ驚くしかなかった。
「幸利はそっと神社に近づいて、絹子が呪いをかけるところを見たらしい。すぐに警察にも届けたが、津田家はこの地方一番の有力者や。警察は相手にしてくれん。それで血気盛んな若い衆が、絹子を捕まえて私刑しようと言いはじめた」
「そのとき、正弘さんはどうしていたんですか?」
「なんにもせんだなあ。学校には辞表を出して、女たちとも別れて、家で悶々としてたわ」
 松井は、厳しい表情をした。
 加奈子は、絹子と正弘が二人でいるところを思いだした。
 一見したところ仲のいい夫婦に見えるが、絹子が正弘を軽く見ていることは隠しようもなかった。
 あれは、正弘が養子だからというだけではなく、そういう過去があったからなのだ。
「わしは退役軍人から譲り受けた銃をかついで、決死の覚悟で神社に乗りこんだ。そのとき、奴らはまさに絹子を殺そうとしておった。連中を銃で脅して帰らせ、絹子には『今度だれかを呪うたら、わしがお前を殺す』と宣告した。すると絹子は、『もうそんなことはできません。だって、雨が降りますから』と応えたんや。
 実際、次の週には雨がふり、旱魃は終わった。そして死人の出るのも止まった。それから五十年経って、わしはやっと絹子の言葉の意味がわかった。朱鷺田川が枯れて山霊の道ができたとき、あの神社は呪いの力を発揮するんや」
 松井はそう言うと、射るような目で加奈子を見つめた。
「あんた、津田さんのことで困ったことが起きたと言うたな。なにがあったんや?」
「私、津田さんに連れられて裏山の神社に参ったんです。そこで天罰を受けろと祈った人が、本当に死んでしまったんです」
 加奈子は、暗澹たる気持ちで告白した。
「なんやて?」
 松井はベッドから身を乗りだした。
 だが加奈子は、いまは娘のゆかりのことで頭がいっぱいだった。
 もしかしたら、絹子はゆかりに人を呪うことを教えたのではないか。赤松母子が亡くなったのは、そのせいではないのか。そう考えると、頭がおかしくなりそうだった。
「松井さん、辛い話をさせてしまってごめんなさい。このおわびはきっとします」
「ちょっと待て!」
 松井が引き止めるのも構わず、加奈子は家を飛び出した。
 

 
 加奈子が松井老人を訪ねていたころ、達也は入院中の津田正弘を訪ねていた。
 自分たちの運命に、津田家がどこまで関与しているのか、だれに尋ねれば本当のことがわかるかを、達也は考えてきた。
 南淵に訊いても本当のことは話すまい。津田絹子に直接尋ねるのはなおさらだ。
 しかし夫の正弘ならば、もしかしたらと思いついたのである。
 正弘は、奥まった個室に入院していた。
 廊下から様子をうかがうと、正弘はかなり衰弱しているように見受けられた。血圧や心電を計測するためのコードが全身に貼りつけられ、抗生剤を含む数種類の薬品が、一本の点滴チューブに連結されて、足の静脈に突き刺さっている。
 顔は土気色で、天井を向いた目はどんよりと濁って腐った魚を思わせた。
 もはやこの老人の心は、肉体を離れてどこかに飛び去ってしまったのかもしれない。このまま帰ろうかと思ったとき、正弘の首がカクンと折れて、その濁った目がじっと達也を見つめた。
 一瞬、うなじの毛が逆立った。
 だが、達也は自分を励まして病室に入り、加奈子の夫だと自己紹介した。
「突然、お訪ねしたご無礼をお許しください。しかし、どうしても知りたいことがあったのです」
 達也がそう言うと、正弘はわかっているとでもいうようにうなずいた。
「私たち一家を伊勢に招いたのは南淵くんですが、そのように指示をなさったのは、奥さまですね?」
 達也が思い切って尋ねると、正弘はあっさりとうなずいた。
 そして唐突に、「三年前や」と言った。
「わしらには子供も、親しい親戚もない……津田家を存続させるためには、血のつながりのある中からふさわしい人を探してこなあかん。もう十年前から……興信所に頼んでいろいろな人を見てきた。その中に、絹子の目にかなう人はおらんだ」
 ときどき息をきらしながらも、しっかりと筋の通った話しぶりであった。
「そして、私たちを見つけたのが三年前だったんですか?」
「ああ。わしらは東京まで出かけて、あんたらを見た。絹子は、加奈子さんこそ後継ぎにふさわしいと言った。しかし、そのころのあんたらは……幸せそうで、とても伊勢に来てくれるとは思えなんだ」
 達也は、自分たちがそんなにも昔から監視されていて、しかもそれに気がついていなかったことにショックを受けた。
「半年前、あんたの学校が倒産したとき、すぐに絹子は……あんたらを受け入れる準備をはじめた」
 そのとき達也は、あることに気がついた。
 そもそも自分が東京を離れる決心をしたのは、二億円を請求する手紙が送られてきた日に、南淵から電話がかかってきたからだ。
 考えてみれば、あまりにもタイミングのよすぎる話ではないか。
「もしかしたら、ぼくに内容証明を送ったのは、奥さまではないのですか?」
「そんなアホなことをするわけがない……ただ、債権者と絹子が連絡をとりあうことは、あったかもしれんなあ。そのお陰で、あんたは救われたのかもしれんよ」
 正弘の言葉には、深い意味がありそうだった。
 もしかしたら絹子は、債権者になにがしかの金を払って、達也を追求することを諦めさせたのかもしれない。
 達也はもう驚く気にもならなかった。そこまで自分たちは、完璧な罠にはめられていたのだ。
「私たちはなにも知らずに、奥さまの敷いたレールに乗っていたわけですね?」
「そうや……加奈子さんを町の福祉課に就職させて、わしの世話をするようにしむけたんは絹子や。しかしある夜を境にして、絹子はゆかりちゃんこそ後継ぎにふさわしいと、思いはじめたらしい」
「ゆかりが? それはどういうわけですか?」
「さあ……あいつは、肝心なことはなにも話さんでな」
 正弘は自嘲するように笑った。
 そして、聞きとりにくい声で囁いた。
「ゆかりちゃんを、わしらの養女にすれば、あの娘は五十億円近い資産を引き継げる……ええ話やと思わんか?」
「たしかにすごい話です。でも、私はゆかりを手放すつもりはありません」
 達也は即座に言い返した。
「それほど娘がかわいいか?」
「もちろんです。それに、お金があれば幸せになれるというものでもないでしょう」
「たしかにその通りや。あんたは賢い。もう少し早く、妻子を連れてこの町から逃げだしたら、よかったのになあ。しかし、もう遅い。川が枯れてしもうたでなあ」
「なんですって?」
「あの家に住んだのが、失敗やったな。あの家の裏山には、魔物が棲んどる。ゆかりちゃんはそれに囚われてしもた」
「魔物というのは、なんですか? あそこには、なにがあるんですか?」
 達也は訊き返したが、正弘の目はもう彼を見てはいなかった。
「松井がもうちょっと早う復員してくれたら、こんな情けない人生を送らんでもすんだのに」
 虚空を見つめる正弘の目に、突如として大粒の涙が浮んだ。
 そのとき達也は、正弘がもはや正気を失っていることに気がついた。
 焦点のあわない目を虚空に向け、喉の奥が見えるほど大きく口を開け、白く黴がはえた舌を突きだして喘いでいる。
 バイタルサインのモニターが、警報音をあげた。血圧が六十を切り、血中酸素濃度がぐんぐん下がっていく。
「だれか、だれか来てください!」
 廊下に出て大声をあげると、看護師が中にとびこんできた。そしてただちに酸素吸入がはじまった。
 
 病院を出たとき、達也はなにか超自然的な恐怖に取り憑かれて、意志の力が弱まり、これから自分がどうすればいいかを考えることさえできなかった。
 しかし、我が家が近づいてくるにつれて気力が蘇り、駐車場に車を入れたときには、できるだけ早く、この町を離れなければならないと決心していた。
 いまさら南淵に文句を言ったところで、どうにもならないのはわかっている。
 だが、どうしても、このままにしてはおけない。
 家に入ると、まっさきに南淵に電話をかけて、単刀直入に「お前は、津田さんと知りあいなのか?」と訊いた。
 一瞬絶句した南淵は、「まあな」と、面白くもなさそうに応えた。
「俺を伊勢に呼んだのも、津田さんの指し金か?」
「そういうこと。その、どこがいかんのや? お前も、加奈子さんも、けっこうな職を得て、豪邸に住んで、おまけにうまいことやったら五十億の資産が転がりこんでくるやないか。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合はないで」
 南淵の開きなおった言い方に腹が立ち、思わず美里のことを口走りそうになった。だが、達也もそこまで愚かではなかった。
「わかった。俺はこれから加奈子とゆかりを連れて、この町を出る。目的を遂げそこなった津田さんは、さぞかし怒ることだろうな」
「ちょ、ちょっと待て」
 南淵が慌ててなだめにかかるのを嘲りながら、達也は電話を切った。
 そして一人ぼっちで、ガランとした家の中を見回した。
 加奈子が葬儀に出席するというのは聞いていたが、この時間には帰っているものと思いこんでいた。
 しかし加奈子だけではなく、ゆかりもどこかへ出かけているらしい。
 達也はふと、美里と知りあう前の我が家を思いだしていた。
 加奈子は慣れない環境に順応しようと必死になって働き、自分が帰ってきたころにはたいてい疲れて眠りこんでいた。
 それでも必ず食事の準備をしてくれていたし、次の日の予定を書き残していた。
 自分がもう少し彼女のことを思いやっていれば、家族はバラバラにならずにすんだかもしれない。
 そう思うと、自分の身勝手さに怒りを覚える。
 もう家族の絆を取り戻すことはできないかもしれない。
 だが、いまならまだ家族を守ることはできるかもしれない。それこそが自分の義務なのだ。
 自分にそう言い聞かせると、達也は南に面したテラスの窓を開けた。
 ここから外を見ると、台風の接近とともに西の方角から湧きだした黒雲が、じわじわと空を侵しはじめていた。
 その黒雲を背景にして、何羽もの白鷺が裏山に向かって飛んでゆく。
『あの家の裏山には、魔物が棲んどる。あんたの家族はそれに囚われてしもた』
 正弘の言葉を思いだしたとたん、全身の毛穴という毛穴が開き、細胞の一つひとつが恐怖におののき、悲鳴をあげた。
 五感が認めることを拒んでいたがゆえに、いままで達也に力をおよぼすことのできなかったものが、とうとう彼を捕らえたのだ。
 身動きもならずに立ち尽くしていた達也は、わけもなく加奈子が愛しくなった。
 結婚して十年、愛しあっている時間よりも、いがみあっている時間の方が長かったかもしれない。
 しかし、自分が加奈子に支えられていたのは、疑いようもない事実だ。加奈子なしでは生きていけない。
 たまらなくなって、携帯電話を握りしめて加奈子に電話をかけようとしたのだが、どうしても発信ボタンを押すことができなかった。
 万言を費やしたところで、いまの自分の気持ちを伝えることはできまい。声を聞けば、また意地をはってしまうかもしれない。
 久しぶりに、達也は加奈子にメールを打ってみようと思った。
『いままでのことを許してほしい』
 そう打った後で、達也は津田正弘から聞いた話を短く挿入しようとした。
 だが考えているうちに、そんなものはどうでもいいような気がしてきた。
 いま大事なのは、自分自身が行動することだ。まず、あの山になにがあるかを調べるんだ。
 達也は『今度こそ、ゼロからやりなおそう』と書き加えると、送信ボタンを押した。
 送信した後の画面をしばらく見つめていた達也は、携帯をポケットにしまうと、倉庫がわりに使っている部屋に入った。
 リビングルームで電話が鳴ったが、南淵からかもしれないと思うと、出る気にもなれなかった。
 山に登るために懐中電灯と愛用のスポーツシューズを探し、下草を刈り払うために鎌を持っていくことにした。
 庭の柵を乗り越え、かつてレンゲが花を咲かせていた荒地を突っ切り、山の端にたどりついたときには、あたりはすでに薄暗くなっていた。
 台風の接近とともに空気も湿り気を帯びて、このところほとんど姿を見かけなかったカエルたちが、一斉に元気な声で鳴きはじめた。
 一息ついて、達也は懐中電灯で山を下から照らした。
 鬱蒼と繁る常緑樹の葉っぱが光を照り返し、木の間には丈高く下草が生え茂っていた。
――加奈子は、ここに裸足で飛び込んでいったんだ。
 あのときのことを思いだすと、胸が痛む。
 自分はなにも知らずに、加奈子の不注意で、ゆかりは家を抜けだしたと思っていたのだ。だが、そうではなかった。裏山の魔物が……。
――そんなものが、いてたまるか!
 達也は力のかぎり鎌を振りおろして、目の前の笹をなぎ払い、山に踏みこんだ。
 

 
 その頃加奈子は、どんなことをしても絹子とゆかりを引き離さなければならないと思いつめて、津田家に駆けつけていた。
 だが家には鍵がかかり、車庫は空であった。
 家の中に入れない猫が、所在なげに庭をうろつきまわっていた。
 そのとき突然、絹子とゆかりは一緒にいるのではないかという考えが、頭をよぎった。
 悪い予感が膨れ上がり、家に電話をかけたが、だれも出ない。ゆかりの携帯にも電話をかけたが、ゆかりは電源を切っていた。
 藁にもすがる思いで信吾に電話しようとしたとき、達也からのメールが届いていることに気がついた。
 ファイルを開くと、『いままでのことを許してほしい。今度こそ、ゼロからやりなおそう』というメッセージが現れた。
 一言もいいわけをしない、簡潔な言葉が嬉しかった。
 でも照れくさくもあったし、いまごろこんなことを言いだす達也に、多少は腹も立った。
 とにかく夫婦で話しあう時間はいくらでもあるのだからと、信吾の家に電話をかけると本人がでた。
「信吾くん、ゆかりは遊びに行ってない?」
 加奈子がそう尋ねると、信吾は「ううん」と、曖昧な返事をした。
「いないのね?」
「うん」
「信吾くん、ゆかりがどこかに行ってしまったのだけど、どこか遊びに行きそうなところに心当たりはない?」
「うん……」
 信吾はまた曖昧な返事をした。
 だが、その言い方は、なにかを知っているに違いないと思わせるものがあった。
「信吾くん、お願い。教えてくれない?」
 加奈子は、焦りをこらえて哀願した。
「たぶん、山の中の神社」
「山の中の神社……もしかしたら姫塚神社のこと?」
「名前はわからへん。でもたぶん、津田のおばあちゃんといっしょ」
 そう言うと、信吾は黙りこんでしまった。
「ねえ、もしかしたら、あなたはそこに行ったことがあるの?」
「うん」
「それは、赤松くんが事故に会った日のこと?」
「うん。でも、ぼくはなんにも知らん。ぼくは途中で帰ったんやもん」
 泣きそうな声で言うと、信吾は電話を切ってしまった。
 あの交通事故があった日、ゆかりと絹子は姫塚神社にいた。そこでなにが行われたかは、火を見るよりも明らかであった。
「なんてことを、してくれたの!」
 加奈子は、だれもいない家に向かって叫んだ。
 悔しくて、悲しくてどうしようもない怒りが胸の底で渦巻いている。
 だが小さな汚点が彼女の心に重くのしかかり、その怒りを絹子一人に向けることを許さなかった。
 すべては、自分が夫の浮気相手を呪ったことに端を発している。
 自分があんな愚かな行動をとらなければ、絹子もこんなに早くゆかりを巻きこむことはなかったはずだ。
 いや、たとえ巻きこもうとしても、家族が一つになってさえいれば、それを跳ねのけることはできたはずだ。
――わかってる。私が悪いのよ……。
 唇を噛んで、加奈子は車のエンジンをかけた。
 そして一路、姫塚神社へと車を走らせた。
 我が家の前を通りかかったとき、駐車場に達也の車があるのが目に入った。
 一瞬、加奈子はブレーキを踏みこんだ。
 達也が帰っている。
 なにもかも打ち明けて二人で神社に行き、ゆかりを取り返そうと加奈子は思った。
 家を失い、仕事を失ったとしても、今度こそ家族が一つになってやりなおすことができたらそれでいいではないか。家族のためなら、自分はどんなことだってする。
 高揚した気持ちは、美里のことを思いだした瞬間、むなしく消えうせた。
 だめだ。あのことだけは、打ち明けられない。
 これは、自分が解決しなければならない問題だ。自分の愚かさが招き寄せた不幸なのだから。
 加奈子はアクセルを踏みこみ、スピード計が警告音をあげるのもかまわず、わずか十分で笠縫インターのそばにある山道にたどりついた。
 前にこの道を通ったのは、わずか十日ばかり前のことだった。
 けれども、道の両側の雑草はさらに丈をのばして行く手を塞ぎ、五メートル先も見えないありさまである。
 ひっきりなしに笹やススキが車の横腹をこすり、地面から突きだした岩に車輪を乗りあげ、あやうく天井に頭をぶつけそうになった。
 絹子といっしょのときは、それほど苦労することもなく通り抜けることができたのに、いまはまるで草木までもが敵意をもって加奈子の行く手を遮っているかのようだ。
 苛立ち、減速しながらヘッドライトを点けたとき、なにかがきしむような音が空気を震わせた。
 減速しながらあたりを見まわすと、前方にそそり立っている松の老木が、巨大な遮断機のように倒れかかってくるのである。
 とっさにブレーキを踏みこんだ瞬間、激音とともに倒木は車のボンネットを叩きつぶし、バウンドして道の向こう側に転がった。
 フロントガラスは粉微塵に砕け、衝撃で加奈子は意識を失ってしまった。
 

 
 そのころ、堆積した落葉や下生えを踏みわけて斜面をよじ登っていた達也は、厚い腐葉土の下に石段が埋もれていることに気がついた。
 もともとここには山に登る道があったのに、それを埋めて隠したようだ。
なぜそんなことをしたのか知る由もないが、その石段を見つけてからは、斜面を登るのは楽になり、半時間もかからずに頂上にたどりついた。
 いや、頂上というより丘陵の頂きというほうが正確で、そこから奥に向かって常緑樹の繁る森が広がっている。
 用心深く懐中電灯であたりを照らすと、木の間に石灯籠の灯りが揺れているのが見えた。
――だれかいる!
 慌てて懐中電灯の光を消して、達也はうずくまった。
 ざらざらした木の幹に体を押しあてて、じっと様子をうかがっていると、しだいにあたりの暗さに目が慣れてきた。
 前方の木立が切り払われて、神社の屋根が覗いている。
 けれども、そのまわりを丈の高い茨が柵のように囲んでいて、中に入ることはできそうもない。
――なぜこんなところに、神社があるんだ?
 携帯の電源を切り、足音を殺して茨の茂みに忍び寄り、中を覗きこもうとしたが、鋭い棘に額をひっかかれただけで、なにも見えなかった。
 ようやく参道の入り口を見つけて中に入りこんだときには、全身汗まみれになり、冷静さも失いかけていた。
 落ちつけ、落ちつけと自分に言い聞かせて、参道の曲がり角までたどりついて、社殿の方を覗きこんだ。
 社殿の前にある拝殿には大きな炉が据えられ、両側には伐採した茨の束が積みあげられている。
 その炉に茨の枝をくべながら、絹子がゆかりになにかを話して聞かせていた。
――ゆかり!
 思わず声をあげそうになったものの、達也はグッと奥歯をかみ締めて、様子をうかがった。
 炉の中で茨がはねて火花をあげ、絹子の穏やかな表情と、一心に話に聞き入るゆかりの顔を浮かびあがらせた。
「あなたは、わが家の大切な後継ぎなのよ。この神社をちゃんと受け継いで守ってくれるなら、私のものはすべてあなたにあげる。でもね、それを邪魔する人がいるから困っているの」
「だれ?」
「さあ、だれだと思う?」
 絹子は優しげに言いながら、ゆかりの目を覗きこんだ。
「ママ?」
「いいえ。お母さんが、そんなことをするはずはないわ。お父さんよ」
「でもパパは、ここが気に入っているって言ってたよ?」
「確かに以前はそうだったの。なぜかというと、好きな女の人がいたから。でもその女の人が死んでしまってから、お父さんはここが嫌いになったの」
「バカみたい」
 ゆかりは、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。瞬間、達也の忍耐も限界に達した。
「いいかげんなことを言うな!」
 たまらずに達也は、姿をさらした。
 ゆかりはびっくりして父親の方を振り向いたが、絹子は彼が姿を現すのを待ちかまえていたのか、にんまりと笑った。
「津田さん、あなたのことはご主人から聞きました。加奈子やゆかりを後継ぎにするために、この土地にぼくらを誘いこんだということも」
 達也は、ともすれば激情にかられて理性を失いそうになるのを抑えて、平静を装った。
 すると絹子は、抑揚のない声で言い返した。
「南淵からも、連絡が来ていますよ。その、どこがいけないというのですか?」
 一瞬達也は、南淵に電話をしたことを後悔した。だが、いまさらそんなことを悔やんでも、仕方があるまい。
「たしかに、ぼくが口を挟むことではないかもしれません。でもご主人は、こうも言われました。うちの裏山には魔物が棲んでいる。妻や娘を連れて、さっさとこの町から逃げだせばよかったと。だからぼくは、ここに来たのです」
 そう言うと、絹子の目がギラッと光った。
 それで達也は、自分の言葉が急所を衝いたのだと確信した。
「ぼくはゆかりを連れて、この町を離れます。あなたも、もうこんなことはやめて、ご主人の側に行ってあげたらどうですか?」
 そういう彼をじっと見つめていた絹子の口元に、やがて意地の悪い笑みが浮んだ。
「ゆかりちゃん、お父さんがああ言っているけど、あなたはこの町を離れたいの?」
「ううん」
 ゆかりは、激しく首を振った。
「ごらんなさい。この子がいやがっているのに、帰すわけにはいきません」
「いいかげんにしろ」
 堪えきれずに怒鳴りつけ、達也は大またに歩み寄ってゆかりの腕を掴もうとした。
 しかし片手に鎌をひっさげ、眼を吊りあげてすさまじい形相でにじり寄る父親に、ゆかりはすっかり怯えてしまい、社殿に向かって逃げだした。
「待て!」
 必死に追いかける達也の背中に冷たい笑いを投げかけると、絹子は握りしめていた人形(ひとがた)を炉の中に投げこみ、呪文を唱えはじめた。
 達也の名前を書いたその人形は炎に包まれ、やがて絹子の祈りに呼応するように、樹上の鷺が騒ぎはじめた。
 ゆかりが社殿の板壁に沿って逃げまわるので、達也は社殿をぐるりと一まわりしてようやくゆかりに追いつき、後ろから抱きかかえた。
「放して!」
 ゆかりは両腕を振りまわし、腕をひっかき、身をよじり、懸命に逃れようと暴れた。
「放して! パパなんか大嫌いよ」
 甲高い叫び声が鼓膜に突き刺さり、ゆかりの肘がみぞおちを抉った。
 達也は、つい何ヶ月か前まで、自分にまとわりついて甘えてきた娘に、こんなにも嫌われてしまったのだと思うと情けなくてたまらず、涙がにじんできた。
 そのとき真後ろで鳥の羽ばたきがしたかと思うと、後頭部に激しい痛みが走った。
 背後から飛んできた白鷺が、鋭い嘴で盆のくぼを抉ったのだ。
 思いもかけない一撃に、目の前が揺らいで足がふらついた。その隙にゆかりは、達也の手を振りほどいて逃げだした。
「待て!」
 よろめきながらも後を追いかけようとすると、何百羽という白鷺の群れがいっせいに襲いかかってきた。
 翼の巻き起こす風が顔を叩き、飛び散った羽毛が雪のように顔に降りかかる。
 無我夢中で鎌を振りまわすと、ズンと重い手ごたえがあって、刃先が一羽の胴体に食いこんでしまった。
 慌てて鎌を引き抜こうとした隙に、二羽の鷺が左右の眼球を嘴でえぐった。
 激痛が脳天を突き抜け、目の前が真っ赤に染まり、達也は社殿の扉に背中から倒れかかった。
 すると、彼を招き入れようとでもするかのように錠前が外れて、片側の扉が開いた。
 中に転がりこんで手探りで扉を閉めると、後を追いかけてきた白鷺の群れは、次々に扉に突き当たってけたたましい声で鳴き騒いだ。
 達也は入り口に這いつくばって、扉を押さえ続けていた。
 ようやく白鷺の鳴き声が遠ざかってゆき、気力を使い果たした達也は、うつぶせに倒れこんだ。
 そして玉砂利に顔を押しつけ、眼窩の痛みに耐えていると、惨めさとやり場のない怒りがこみあげてくる。
 すべては絹子のせいだ。あの老女は、財産と引き換えに、ゆかりを悪魔のような娘に仕立て上げようとしている。なぜ加奈子は、あの女の恐ろしさを見抜けなかったのだ。
 血まじりの涙を流しながら、己が運命を呪っていた達也は、なにかの気配を感じてハッと目を見開いた。




 とたんに眼底で激しい痛みが炸裂した。
 いったんは出血が止まっていた両目から血が溢れだし、鼻腔や口腔に流れこんでくる。
「だ、だれだ!」
 達也は必死の思いで上半身を起こして、気配のする方を向いた。
 すると闇に閉ざされた視界に、青白い光が浮かんだ。
 鷺に突き破られた両眼は視力を失い、もはや己の手を見ることさえできない。それなのに達也は、闇の中に浮ぶその青白い光を、はっきりと認識することができた。
 たとえ眼球が失われても、大脳視覚野が健在であれば、人はある種のエネルギーから実像を創り出してしまうことがある。
 いま、達也の身に起こっているのは、まさにそういうことであった。
 その光は無数の青白い襞となって宙を揺らめきながら人の姿をとりはじめ、やがて長い髪を地面にまで垂らし、中世の小袖を身にまとった女になると、美しい切れ長の目でじっと彼を見つめて、一歩を踏みだした。
 ただそれが近づいてきただけで、恐怖が全身を締めつける。
 逃げようとしても神経が麻痺して立ちあがることができず、踵で地面を蹴って、達也はズルズルと後ずさった。
 だが、すぐに背中が扉に突き当たった。
 外に出ようと扉を肘で押したが、さっきはあんなに簡単に開いた扉が、ピクリとも動かない。
 達也は女に背を向け、扉を拳で叩いた。
 そうこうしている間にも、女はゆっくりと近づいてくる。
 空気が異様に引き締まり、神経がピリピリする。
 こんなものは幻覚だ。恐いと思っているから見えるのだ。実際はなにもいない。なにも……。
 玉砂利が、ズサッと音をたてた。
 もう一度、すぐそばでズサッと音をたてた。
「助けて、助けてくれ!」
 かすれた悲鳴をあげて、扉にすがって立ちあがりかけた瞬間、それは達也を抱きしめるようにまとわりつき、冷たい手が体に触れた。
 静電気の火花が飛び散り、血管を伝わって、電流が達也の心臓に流れ込んだ。
 人の心臓は、右心房から左右の心室へと微かな電流が流れることによって、規則的に収縮して全身に血液を送りだしている。女の送りこんだ殺人電流は、心臓の電場を狂わせた。
 達也の心臓はそのショックに耐え切れず、いったん膨れあがったまま血液の供給が断たれた。
 大脳の壊死がはじまり、急激に遠ざかっていく意識の中で、達也は外に出て行こうとした女が、扉のところでなにかに阻まれたように足踏みをして、社殿の奥へと戻っていくのを感じていた。
 
「パパ……」
 ゆかりは静まり返った社殿の様子をうかがいながら、不安にかられて声をかけた。
 いったいこの不安がなにに根ざすものなのか、ゆかり自身よくわかってはいなかった。
 東京の友達から自分を引き離し、こんな田舎町に連れてきた憎い父親。
 あろうことか、母以外の女性を愛して、家族をめちゃめちゃにしてしまった最低の父親。あんな男は、さっさと死んでしまえばいいとさえ思っていた。
 では、なぜこんなに胸が痛むのだろう。
 混乱し、悩みながらゆかりは社殿に近づき、扉の隙間から中を覗いた。
 すると、黒いスポーツシューズを履いた父親の足が覗いていた。
 その靴を見たとたん、ガクガクと膝が震えはじめた。
 父親は休みの日に出かけるときは、よくあれを履いていた。
 去年の春、井の頭公園の池に落ちたゆかりを助けてくれたときも、奥多摩でバーベキューをしたときも、運動会のときもあの靴を履いていた。ママにプレゼントしてもらった靴だから、大切に履くのだと言っていた。
 いままで記憶の底に埋もれていた、数え切れないほどの思い出が、止め処もなく溢れだしてきた。
 あんなにも楽しいことがあったのに、どうしてそれを忘れていたのだろう。
 たしかにこの半年は、辛いことばかりだった。でも、だからといって父親が自分に辛くあたったことがあっただろうか。
 いや、一度もない。
 母親はイライラすると、ヒステリックに怒鳴ることがあったけど、父親はいつも優しかった。なのに、どうして自分はあんなに父親を嫌ったんだろう。
「パパ、ごめんね……ごめん」
 すすりあげながら社殿の扉を開けると、無惨な父親の死体が、目に飛び込んできた。
 両目が潰れて瞼はどす黒く腫れあがり、溢れだした血まじりの体液が、べっとりと顔にこびりついている。
 ゆかりは、悲鳴をあげることすらできず、そこに立ちすくんだ。
 喉が痙攣して、息を吸うことも吐くこともできないまま、ショックが頭の中でどんどん膨れあがっていく。
――あたしのせいで、パパは死んだ。あたしがパパを殺したんだ!
 ゆかりのしなやかで傷つきやすい心は、悲しみと、罪の意識に耐えきれず、脳の真奥へと潜りこんでいった。
 自分の喉からほとばしる悲鳴が、どんどん遠ざかっていく。
 目の前が真っ暗になり、社殿の外から聞こえてくるざわめきが途切れ、手足の感覚がなくなり、平衡感覚を失った身体は無重力空間に放りこまれたようにバランスを失って大きく揺らいだ。
 瞳孔の開ききった目で宙を見据え、フラフラと前後に揺れていた肉体は、やがて棒のように崩れ落ちた。
「ゆかりちゃん!」
 いままで様子をうかがっていた絹子が、心配して駆け寄ると、ゆかりの開ききっていた瞳孔が収縮した。
 ゆかりは瞼をいったん閉じて、またゆっくりと開き、身体の感触を確かめるように、玉砂利に手をついて身を起こした。
「なんともないよ、おばあちゃん」
 ゆかりは絹子を見つめて、にんまりと笑った。
 彼女の目から、わがままではあっても、人を惹きつけずにはおかない愛らしさは消えていた。
 替わって抑制のきいた強い意志が、蒼白い炎となって目の奥で燃えていた。
「あなたは……」
 絹子は、まじまじとゆかりの目を覗きこんだ。
 ゆかりの脳の中に潜んでいたなにかが、ついに姿を現したのかもしれない。これこそ絹子が待ち望んだ瞬間のはずであった。
 だが心は晴れなかった。それどころか足下の地面が崩れ、宙に投げ出されたように目の前が揺れた。太平洋戦争で、自分の愛した人が戦死したと聞かされたときから纏っていた心の鎧がはがれ、裸のまま野に投げ出されたかのようであった。
 いまになって絹子は、あのわがままで無邪気なゆかりが、どれほど自分の心を和ませてくれていたかに気づいた。
 大きな口をあけてケーキにかぶりつき、クリームを口のまわりいっぱいにつけていたゆかりの顔が、いまも瞼に焼きついている。
 幼いがゆえに抑えきれない憎しみや怒りを焚きつけて、自分はゆかりの心に巣食っていたもう一つのなにかを顕在化させた。
 だが、自分が愛し、本当に必要としていたのは、あの無邪気なゆかりではなかったか。
――私は、なんということをしてしまったのだろう。
 いまのいままで、自分は城戸一家をこの笠縫に呼び寄せ、すべてを完璧にやりとげてきたと思っていた。
 城戸一家だけではない。自分は、この笠縫町に関わりのある、すべての人の運命を握っていて、自分こそが主なのだと信じきっていた。
 だが、本当にそうだったのだろうか。
 絹子は、初めてゆかりに遭った夜のことを、あらためて思いだした。
 あのとき感じた得体の知れない慄きは、自分が運命を支配しているという確信が揺らいだことによるものではなかったか。
 だが、もう遅い。
 自分は、後戻りのできないところまで来てしまっている。
 絹子はあらためて、達也の無惨な死骸に目をやった。そして逃げだしたいという衝動を押さえつけ、ゆかりと向かいあった。
「あなたは、濃姫さまの意志を感じることができるといったわね。濃姫さまは、なにを望んでいらっしゃるの?」
「もうすぐわかるわ……」
 ゆかりは、煙るような目を参道に向けた。
 やがて参道を駆けて来る女の足音が聞こえた。