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デス・ヘッド Death's Head
序 章
1
二〇〇三年の東京は、春先に寒い日が多かったせいか、いつもの年より桜の開花が遅く、三月の末になってようやく蕾がほころびはじめると、人々は待ちかねたように花見にくりだした。
ここ武蔵野市でも、JR吉祥寺駅から井の頭公園へと続く道は一日中ごった返し、午後五時をまわってからは夜桜見物にむかうサラリーマンが加わって、たいへんな人出であった。
自転車に乗って駅前を通りかかった城戸加奈子は、その人込みを避けて車道に降りると、渋滞する車をスイスイと追い抜いて、公園通りを南に下りはじめた。
ジーンズに白いカーディガンを羽織り、長い髪を風にそよがせてペダルをこぐ姿は颯爽としている。
いまも若いカップルの男の方が加奈子に視線を吸い寄せられて、連れの女につねられていた。
ほっそりとした鼻梁に、睫の長い大きな目がよく映える。人形のように整った顔立ちをしていながら、芯の強い優しさを感じさせるのは、介護の仕事をしているせいかもしれない。
もっとも、加奈子のここに至るまでの人生は、決して平坦なものではなかった。
加奈子は高校生のころからモデルとして活躍、週刊誌のグラビアになるほど人気もあった。
だが二十歳になったとき、姉のように慕っていた先輩モデルが、陰で自分を中傷しているのを知り、その先輩と大喧嘩をして所属事務所を辞めて、介護の専門学校に入ったのである。
そんな突飛な行動をとったのには訳がある。
加奈子は父親を早くに亡くして、母方の祖父を父親代わりにして育ったのだが、モデルの仕事を始めたころに、その祖父が脳梗塞で倒れ、寝たきりの生活を余儀なくされた後で亡くなった。
その間、祖父のために何もしてあげられなかったことが悔やまれてならず、いつかは介護の仕事をしたいという思いが、膨らんでいたのだ。
あれからもう十年の歳月が流れ、いまはケアマネジャーとして活躍している。
今日も一人暮らしの老人を訪ね、介護保険の認定手続きを終えて、これから帰宅するところであった。
公園通りを下って、多摩川上水の手前を左に曲がると、道の両側にコロニアル風のしゃれた住宅が十軒ほど並んでいるのが見えてくる。加奈子の家は、その内の一軒だ。
ここは大手の不動産会社が分譲した高級住宅地で、住民のほとんどは医者や弁護、そして会社役員たちだ。
ついこの間までは、夫の達也もその一人だった。
達也は加奈子が通っていた専門学校で、英話の講師をしていた。たまたまいっしょになったバスの中で、彼の方から声をかけてきたのが交際するきっかけだった。
達也は特別にハンサムではないし、話をしていて楽しい男でもない。だが、輝かしい未来を感じさせるオーラのようなものがあった。加奈子はそれに惹かれて、プロポーズを受け入れたのである。
当初はなにもかもが順調だった。
結婚した年に、達也は仲間たちと英会話学校を立ちあげた。
ビジネスマンに的を絞った授業が受けて、瞬く間に学校は大きくなった。
さらに達也が考案したインターネットを使った英会話授業がマスコミにも取りあげられ、ITバブルのころには上場も夢ではないといわれるほど勢いがあった。
しかし不況で生徒数が減り、焦った社長が株式の運用で十億円を超える赤字を出して、今年の初めに学校は倒産してしまった。
社長が心労で倒れたため、大勢の債権者が達也のところにもやってきた。
講師としては優秀だが、経理のことなどなにも知らない彼は、ただ頭を下げるしかなかった。
三ケ月もそんなことを繰り返している間に、達也は人が変わったように寡黙になり、新しい仕事を探そうともせずに家に引きこもるようになった。
それでも加奈子がめげずにいられるのは、いまの仕事に誇りと生きがいを感じているからだ。
花壇の脇に自転車を停めて玄関のドアを開けると、三和土には達也の靴が乱雑に脱ぎ捨ててあった。
以前はもっと几帳面な人だったのに、とため息をつきながら廊下にあがると、かすかにアルコールの臭いがした。
達也が昼間から酒を飲んでいるのだと気がついた加奈子は、上履きもはかずにリビングルームに踏みこんだ。
だが達也の姿はなく、テーブルの上には飲みかけのジンと、封を切った茶色の封筒が投げ出してあった。
その封筒には、『内容証明』という大きなスタンプが押してある。差出人は聞いたこともないファイナンス会社だ。
内容証明郵便は、民事訴訟を起こす前に送られることが多い。
まさかとは思いながら中の書類に目を通すと、学校が倒産したのは、達也にも責任があるのだから、二億円を支払えという通告であった。
――ふざけてるわ。株の取引に失敗して、会社を倒産させたのは、社長じゃないの。達也はなにも悪いことなんかしていないのに……。
加奈子は、息ができなくなるほどの烈しい怒りを感じた。
そのとき二階にあるバスルームから、浴槽に湯を入れる音が聞こえてきた。
達也に違いない。こんなときに風呂に入るなんて、いったいどういう神経をしているのだろう。
「あなた!」
眉を吊りあげてリビングルームを飛び出しかけたとき、サイドボードの電話が呼び出し音をあげた。
受話器をとると「ひさしぶりやね。南淵です」と、太い声がした。
一瞬、加奈子は電話に出たことを後悔した。
南淵亮は身長一七〇センチで体重が九十キロちかくあり、満月みたいにまん丸い顔をした男である。
達也が英会話学校を設立したとき、南淵は中心メンバーの一人だった。何度か城戸家にも遊びに来たのだが、加奈子はどうしても彼を好きになれなかった。
だから南淵が社長と喧嘩をして郷里の三重県に帰ってしまったときは、縁が切れてホッとしたくらいだ。
いまごろ、なんの用事で電話をかけてきたのだろうと戸惑っていると、「今回はえらい目におうたねえ。達也は元気でやってる?」と、優しい声で訊いてきた。
加奈子が曖昧な返事をすると、南淵はさらに言葉を継いだ。
「ぼくはねえ、三重県の伊勢市で『南都スクール』という進学塾を経営しとって、これがけっこう軌道に乗っとるんや。それで達也に塾を手伝うてもらいたいんやけど、どうやろ?」
「えっ?」
加奈子は思わず絶句した。
「若いころの達也は、進学塾でナンバーワンの実績をあげたこともある、凄腕の講師やったんや。とにかく人を教えるのがうまいんやわ。そやから伊勢に来て、うちの生徒を教えてほしいんや」
南淵の言葉に、加奈子は涙が出そうになった。
尾羽打ち枯らしたいまの達也に、声をかけてくれた友人は、南淵が初めてだ。
いままで、南淵に対して抱いていたマイナスイメージは、一瞬にして吹っ飛んでしまった。
それに加えて、伊勢という土地に不思議な縁を感じた。
というのも、父親代わりになって彼女を育ててくれた祖父は、伊勢の出身だった。
ただ、東京を離れるとなるといろいろな問題がある。ともかく達也に電話をさせようと思っていると、南淵はさらに言葉を継いだ。
「実は加奈子さんにも、ええ仕事があるんや。伊勢の近くの笠縫町というところの役場で、ケアマネジャーの資格のある人を探しとるのや。加奈子さんにぴったりやで」
「ほんとに?」
そこまで気をつかってくれているのかと驚く一方で、あまりにも話がうますぎるような気がして、加奈子は少し警戒心を抱いた。
それを敏感に感じとって、南淵は声のトーンを変えた。
「一つ忠告したいことがあるのやが、加奈子さんがいま住んどる家は達也の名義になっとるやろ。都内にそんな立派な家を持っとると、債権者に狙われるで」
「狙うって、どういうことですか?」
「つまり民事訴訟を起こして、差し押さえるんや。そうなる前に、さっさと処分したほうがええ」
内容証明郵便を受け取った直後だけに、南淵の言葉には説得力があった。加奈子の心は急速にその提案に傾きはじめた。
「ちょっと待ってください。すぐにこちらから、電話をさせますから」
「いや、このまま待っとる。こういうことは、タイミングを逃したらいかんのや。すぐに達也を呼んできて」
「わかりました」
加奈子はそう言い残すと、なにか目に見えない力に押されるように階段を駆け上がって、バスルームのドアに手をかけた。
このドアの向こうに、ランドリーを兼ねた脱衣場があり、その奥に風呂場がある。
だからいつもは入り口のドアには鍵をかけないのだが、どういうわけか今日にかぎって、達也はドアをロックしてしまっていた。
「あなた、開けて! 伊勢の南淵さんから電話よ」
ドアを叩くと、中でパシャッと水がはねる音がした。
だが、達也は返事をしない。
「大切な話なのよ。早く出てきて!」
加奈子が執拗にドアを叩くと、「こっちから電話する」と、かすれた声が応えた。
「だめ。南淵さんは電話を切らずに待っているのよ。いますぐに出てちょうだい」
加奈子の勢いに負けたのか、風呂場のドアを開けて脱衣場に出てくる音がした。
だが、それからが長かった。
引出しを開けてなにかごそごそしていたかと思うと、風呂場に戻って湯を流し、ようやく姿をあらわすまでには十分以上かかった。
思わず文句を言いかけたが、目線をあわせたとたん、言葉が喉元で凍りついてしまった。
達也は、まるで死の淵から蘇った病人のように、生気のない濁った目で冷ややかに加奈子を見つめると、背中を丸めて階段を降りていった。
その左の手首をタオルでぐるぐる巻きにしているのに気がついたとき、加奈子の頭の中に電光が閃いた。
――まさか!
バスルームに飛び込んで浴槽を覗くと、排水孔のまわりに残ったお湯が、うっすらと赤みを帯びている。
おそるおそる指で拭うと、ヌルッとした感触があった。
心臓が鼓動を早め、頭の中にパニックの火花がとびちった。
クズ籠を覗くと、体毛の手入れに使う柄のついた剃刀が、ティッシュにくるんで捨ててある。
拾いあげてみると、その刃にはべっとりと血がこびりついていた。
これで手首を切ったのだと悟ったとたん、加奈子は立ちくらみがしてしゃがみこんでしまった。
――もし強引に引っぱりださなければ、いまごろ……いいえ、本当に死ぬ気だったら電話に出るはずがない。ちょっとした出来心よ。そうに決まってる。
できるだけ事態を軽く受けとめようと努力しながらも、涙が溢れてくるのをどうすることもできなかった。
ただ、二億円を請求されたというだけで自殺するほど、達也は愚かではない。学校が倒産してからいままで、さまざまな苦しみが積もりにつもって、あの請求書がとどめを刺したのだ。
そんな達也の弱さを憎み、彼の心の闇に気がつかなかった自分の迂闊さを責め、さまざまな感情がフラッシュのように瞬いては消えていった。
やがて頭の中はからっぽになって、静かな悲しみがその隙間をうめていった。
どのくらいそうしていたのだろう。冷たい風を感じて顔をあげると、バスルームの入り口に達也が立っていた。
加奈子は慌てて顔をそむけ、涙を拭った。
すると驚いたことに、達也は彼女のそばに膝をつき、なんともない右腕で加奈子の肩を抱いてこう言ったのである。
「俺は、もう東京にいたくない。南淵の学校を手伝うことにした。わるいけど、いっしょに来てくれ」
達也は、新しい生活に踏みだす決心をしたのだ。
そう気づいたとたん、東京を離れなければならない無念さがこみあげてきたのだから、人の心は複雑だ。
招かれてゆく達也はいいとして、自分がいまの職場で築きあげてきたキャリアは無になり、娘は友達と別れて転校しなければならない。
結局、犠牲になるのは家族ではないか。
その恨みをぶつけようとしたとき、いきなり達也は彼女を抱きしめて、唇を押しつけてきた。
あまりの身勝手さに腸が煮えくりかえり、加奈子は思い切り両手を突きだして彼を押し退けようとした。
だが、達也は抗うことができないほど強い力で彼女を抱きしめ、そのまま押し倒して、荒々しく唇を吸った。
すると、加奈子の体の中で眠っていたものが突然目をさまし、血の流れに乗って全身を駆けめぐった。
こわいくらい乳房が硬くなり、触れただけでも痺れるような痛みが走る。
達也の指がジーンズの上から腿のつけ根にふれた瞬間、加奈子はうめき声をあげて腰を跳ねあげた。
まさにそのとき玄関のドアが開いて、「ただいま!」と、元気のいい声がした。
娘のゆかりが帰ってきたのだ。
二人はバネ仕掛けの人形のように、パッと体を離して起きあがった。
「おかえり!」
加奈子はステージの幕間に化粧をなおす女優さながらに髪を整え、ブラウスの乱れを直し、気むずかしい顔をしている達也を残してバスルームを飛び出した。
すると、子供心に、なにかいつもと違うものを感じたのだろうか、ゆかりがランドセルを背負ったまま、不安そうに階段をあがってくるのに出くわした。
おませで、ちょっとなまいきで、普段は苛々させられることも多い。
けれども、その大きな目に見つめられたとたん、加奈子はなんともいえない胸の痛みを覚えて娘を抱きしめると、聞きとれないくらい小さな声で「ごめんね」と囁いた。