双極性障害の私が司法試験に合格する話(409)完全なる自由は存在しない説。

私が大事にしているもののひとつに「自由」がある。

私の持っている古い国語辞典(旺文社の詳解国語辞典)には「他からの強制や束縛を受けず、自分の責任で思うように行動できること。また、そのように行動するさま。」とある。

自分が将来どんな状態で、生活して、年を重ねていきたいか。考えるとやっぱり一番に来るのは「自由でありたい」ということ。

今もかなーり自由に暮らしているが、制約があることにはある。それによって我慢していることはある。本当はやりたいけど、今の生活を維持するなら、やっちゃだめよね、みたいなことはたくさんある。

じゃあ、私は不自由なのか?いや、今の私は自由だと思う。だから、私は理想的な人生を送れている。そして、この生活は、決して背伸びもしていないし、自分にはとても向いていて、似合っているとも思う。人に自慢できるような、称えられるような生活ではないけれど・・・。

でももっと、貪欲に、自分の自由の追求をしてもいいのでは?と今日、ふと思った。そんなに自由が好きならば、もっと追い求めるべきじゃないかと。

それで、考えた。

完全なる自由とはなんだ?

結論、そんなもの存在しない、と思うことに落ち着いた。

私にとっての自由は、「喜び」でもある。あくまで私流の考え方だけど、「喜び」しかない人生ってつまらない、ニコニコしかしていない人は魅力的じゃない、そう思う。喜びの反対は、悲しみ、だとすると、「悲しみ」と自由の反対である「不自由」は直結してくる。自分の感覚的にも、「不自由」なときは確かに「悲しい」。でも、だから、自由を追い求めようとする。もし、不自由が存在しなければ、私は自由を追い求めることもしないと思う。

人間が人間だけで生きられないように。空気とか、食物とか、日光とか、他者とか。そういう外部の存在があって初めて、人間として成立するのだから。そうだとしたら、「自由」も自由だけでは存在できなくて。「自由」の中には「不自由」があってはじめて「自由」がある。

表裏一体、というわけだ!

だから、つまり、不自由であることに悲観せず、でも、悲しみは受け止め、それを握りしめて、自由を目指して生きていく。これこそが私の生き方なんじゃないかと思う。「自由を手に入れる」のとは違う。あくまで、目指す。さまざまな形の自由を追い求めて、たくさんの不自由を背負って生きていく。

だから双極性障害だって、不自由だけど、自由の源なのだとも思う。

さて。なんか気分が自由なので気持ちがいい。このままの勢いで、勉強をしよう。今日は、民事訴訟法、全体をさらいます。

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