双極性障害の私が司法試験に合格する話(413)躁状態の自分を信じていいか?

ちょっと不安定な今、躁気味かな。

なんか、思いついちゃってワクワクしてる。どうかなあ。どうかなあ。この思い付きが、司法試験合格に向けてプラスになるのか、マイナスになるのか。でも後先考えない私自身がワクワクしてしまっているのも事実。でも、今の私は、躁状態でハイなのも事実。やりたくてたまらない。そんな自分の思い付きに乗っかるのはいいのか?

「セルフドキュメンタリーをつくろう」

ってことをおもいついちゃった。っていうか。前からやりたかったのだけど。カメラ回すのも、編集するのも、大変な気がして、やりだしたら時間使っちゃうのはわかるし。だから我慢してた。

ひとまず、友人に、「躁状態であることを前提に聞いてほしい」と言って、この思い付きを話した。友人の回答は最高だった。「やめなよ試験に集中しなよ、と言うこともできるけど、今はひとまず実現する方法を考えてる。」って。あー私のことわかってくれてるなあって思う。思いついたら、動き出すのを止められない私のペースをよく知っている。

生活全部を写して、編集するのは大変だから、投入する時間を決めてその中で動いてみたら?noteの「双極性障害の私が司法試験に合格する話」の動画版にしてみたら?というアイデアをもらった。

続くかわかんないけど、ひとまずやってみようと思う。

なんで、自分を写したいのか。友人にも聞かれた。自分でもかなり考えた。結果、自分を肯定したいから、なんだと思う。誰かに肯定してほしいんじゃない。自分が自分で肯定したい。そのために、残したい。じゃあ、独りで撮って、独りで見ればいいじゃん、とも思う。でもこれが私は続かない。日記とか、続かない。なのに、noteはもう3年近く続いてる。400本も記事書いてる。自分でもびっくりしてる。これは、明らかなのは、誰かが見てくれてる、っていうその違い。誰かに肯定してほしいわけじゃないけど、誰かに見ていてほしい、という欲求はある。その違いは何だろう?よくわかんないけど。

だらだらする自分、うまくいかない自分、なんでもないかっこ悪い自分、そんな自分をもっと肯定できたら、楽なんじゃないかって思う。ここに書いてるnoteは推敲なんて一切しない、ただの掃き溜めなんですね。人様に届ける文章としては最低の最低、そんなものなので。でも別に最低ランクだからって、卑下してるわけじゃない。こんなんもあっていいでしょ?って感じ。だから無料で公開してる。

なんというか、自分の持っている物の価値を、自分で低いとみなしているものに関して、実際はどうかな?世間では意外とそんなに低くもないんじゃない?っていう期待をもって。自分で自分を低く見積もらず、もっと外に出してみよう、って感じ。私自身が、私自身に対して、一番、厳しいのはわかってるから。

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