便利であるということ

小さな子供の頃、私は仲間に入れない子供だった。
今思えば別に他の子達から何かされていた訳でもなく、門扉は開かれていたから、普通に仲間に入れる環境だったのに、なぜか私は仲間に入れなかった。

遠足でぽつねんとお弁当を広げたり、
文化祭のようなものも一人でまわったりしていた

小学校の3年生くらいのとき。
私がやっと入れるようになったグループで突然仲間はずれになった。リーダの子が無作為に仲間はずれを決めていて、それに選ばれた。
上履きがなかった。
何を思ったのか、私はその子の上履きをちゃんと隠し返して、その仲間はずれは1日だけで終わった。

あれはなんだったんだろう、と今だに思う。

それから私はグループを信用していない。

私は特に問題なく大人になった。
友達も多くはないが居るし、仕事もしている。

年に数回、学生時代のグループでBBQにいく。
買い出しや場所取りや、てんやわんやしながら楽しく過ごすのだけれど、私はいつも、なんとなく苦しい。

私はお酒を一滴も飲まないので、いつも少し手持ち無沙汰で、何かしらの役割をみつけて、とにかく何かしている。

何年か前に、私が居ると便利と言われたことがある。

その時に私は、
私がグループに居て、爪弾きにされないための理由として「便利」を選んでいた事に気付いた。

それから、そのグループの会にはあまり行かなくなった。

私はたぶん、とても自己肯定感が低くて、
誰かにとって便利でない私に、価値を置けないのだと思う。

同棲していた頃、苦手な家事を完璧にしなければいけないプレッシャーを勝手に感じていた。相手にとって便利でなければ意味がないと思っていた。

会社でもそうだ。
チームビルディングの一環でグループで謎解きゲームをやらされた時も、そもそも謎解きやクイズが苦手な私はとても落ち込んだ。

とても馬鹿馬鹿しい。
私は誰からも便利でいることを望まれていないのに、誰かのための便利でいることを自分に押し付けて、一人で落ち込んでいる。

今度、同じ課のメンバーで旅行に行くことになった。とても楽しみだね、遠足みたいだね、と良い大人がうきうきと予定を立てている。

私は提案されるいろんなプランを眺めながら、遠足でひとりでお弁当を食べていた小さな私をいつも思い出している。

大丈夫。
便利でいる必要も完璧である必要もないよ。
みんな大人だから、なんでも自分でできるよ。

小さな私が、何も担わず「楽しかった」と言えるように、今度こそ便利を置いていこうと思う。

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