認知の話

30も半ばになろうとする今、私は20代の頃よりも圧倒的に生きやすくなり、どんどん開き直ってきている。

とにかく自己評価が地にめり込むほど低く、
どうあるべき、という「べき論」に自分で縛られていて、
少しずつ克服してはいたけど、それでもずっと溺れているように生きていた。

ゴボゴボもがいていた私の両脇に腕を入れて、前の課長が一気に引き上げてくれて、私はだいぶ『人間的』になった。

とはいえ、
そんなすぐ変わるわけもなく、
特別枠で推薦状もらってまで受けた昇進試験に落ちたタイミングで「人間性が悪いから落ちた」みたいな事を部長に言われて気に病んだりもした。

なんせ自己評価が低いので、自己評価にぴったりくる低い評価をされると、自分を責めすぎて起きられなくなるのだが、
その時は、カウンセラーにお金を払って話を聞いてもらうことで事なきを得た。
必要なのは、私の受け止め方ではなく、客観である事を理解した私は客観をお金で買った。

こうやって、対処の仕方を心得てきたおかげで、
とても生きやすくなって、冒頭のように、毎年楽しく生きてるを更新している。

自己評価については概ね対処できつつあるが、
相変わらず私は「こうあるべき」が根強く許せないものが多い。

私は許せないものが多分人より多い。
特に、実力がない役職者が許せない。

年下でも優秀だったり、専門外の業務から配属になっても役割を全うしようとする人を見ると、「なるべくしてなっているなー」と思えるのだが、そうではない人を許せない。

結局、派遣社員上がりの私はがどんなに評価が上がって、どんなに目に見える成果を上げても、役職が上がるわけでも待遇が良くなるわけでもなく、とにかくどうにもならない事にがっかりしていて、そのがっかりしている私を「この人はすごい人だから当然だ」のように納得させられない相手が許せない。

私が派遣にならなければいけなかったのは、そもそも大学に行くことができなかったからで、結局育った環境でついた差が、どんなに努力したって社会人になっても越えられないんだな、という八つ当たりみたいな事を、私はずっと思っている。

地方から子供を都内に一人暮らしさせつつ学費払える財力がある家なんて、今の日本で言ったら、かなり裕福な家だと私は思う。

なんせ私はそこで躓いてる。

予備校も行ったことない。塾もほとんどない。
学生時代の思い出なんてない。
写真も一枚もない。家の中でずっと疑心暗鬼になってて、鏡も見れなくて、薄っすらとした惨めさしかなかった私を、その人たちは居るだけで、より惨めにしてくる。

私の認知の歪みはここで、
相手が恵まれている前提で自分と比較して自己評価を下げている。

ここまで解ってる。
妬み僻み嫉み以外の何者でもない。

でも、実際恵まれてるんだよ!!!と思っていて納得ができてない。

納得するために私はすぐ言葉に逃げる。
こういう人を表現する言葉はなんだろう
この状況に名前をつけるとしたらなんだろう

自分の状況を肯定できない(自己肯定ができない)せいで、言語化することで一般してやりすごそうとしている。

自分の認知の歪みはここからですからね!
と思うためにこれを書いているけど、
それすらも言語化して一般化してるだけなのかもしれない。

私は、この許せない役職者と本当に向き合えない。
イライラするのを通り越して、自分がバカバカしくなって、何もしたくなくなる。

自分が悪いのか相手が悪いのか、私の考え方が悪いのかなんなのか解らない。

それを解かろうとする事さえ、私の認知の歪みなのか、とさえ思う。

唯一救いのが、
今の課長が「きみが思うことは理解できるし、間違ってないと思うよ」と言ってくれる事だけど、
課長は私と考え方が似すぎていて、
もう私は都合のいい客観的に頼っているだけなんじゃないかと思ってしまう。

この、許せない、を手放して、どうでもいいわ、となるために私に必要なのはなんなんだろう。

考えるほど私自身の認知が、また歪んで行く気さえする。

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