自己啓発と自己愛とブスとYシャツと私

結婚した友達が樽のように太り、半年で著しく「おばさん化(自称)」したことを受け、世間一般で言うところの安定を手に入れると人って安心するのか、と悟った。 

私の第三の目がカッと開き、危機感危機感とブザー鳴らしてアピールするのを黙殺して、私は最近ハマってる乗馬クラブに電話しレッスンの予約。 

ここまで超スムーズ。 
現実逃避に向けた私の行動の俊敏さはすごい。 

まぁ人の幸せはどうでもいいとして、このとき何が一番怖かったかって、自分に向かうエネルギーが感じられないことが怖かった。 

自己啓発をせずとも安定は手の内にあり、自己愛を発揮せずとも自分に向かう愛が保証されてる、この結婚という契約の凄さを見せつけられた・・・みたいな。 

だからと言って勝間和代あたりみたいに自分磨け自分磨け、と言い募りたいわけではなく、こう感じてしまう自分の状態が一番の問題だと思っている。 

私の第三の目が鳴らす危機感ブザーは、おめーと同じ年で結婚してるよ向こう人生動いてるよ、というブザーで、これはひとえに私がどこかで、一般的な女性の幸せ的「普通」へ無意識に寄せようとしてるからであり、向こうから見た私は負け犬とやらか的被害妄想が併発する、この。 

他人の状況と自分の状況をとっさに比較してしまった自意識の状態。 

世の中いろんなブスがあるけどブスという状態があるとしたら、まさにこれ。ブス状態。 

比較って結局、自己派生的なものが多い。 
私をナーバスにするのは私なわけで、中島みゆきの「ファイト」じゃないけど私の敵は、あくまでも私、なわけだ。 

このブス状態をぬける為に必死でやる自己啓発って、ちょっと痛い。でも、比較して蹴落とされた自分を救うのも、結局は自分なんだと思うと、自己啓発でもして「努力している自分」を作り上げるくらいの強めの自己愛がないと、自分磨きすぎて小石並みに削れるんじゃないか

・・・っと言い訳のように思ってるから、自分に向かうエネルギーが無いことが怖かったんだなぁ。 
なんせ私には自分を抱きとめる手段が自己愛しかない。 

そういえば 
何かの広告で「自分史上最高の私」というコピーがあった。 
これ、自分磨きの本質と結果ってかんじで超好き。 
自分史上っていう自己満足と自己完結に、第三者目線を気にしてやる自己啓発は、そもそもお門違いなんだと気づく。 

「他人から見た自分」という要素が私を比較に走らせ自己愛の沼に叩き落とす。 

いま一番楽しい乗馬も、たまに乗馬が好きなのか乗馬をしてる自分が好きなのか、はたまた目をかけてくれる先生が好きなのか解らなくなる。 
でも、運動大嫌いな私が、毎日ランニングに行くくらい楽しいっていう、その自己完結の感覚だけあれば、他人も、他人を意識する自意識も本当は必要ないんじゃないか、と思う。 

比較は私を不幸にしかしない。自己愛と心中しないためにも、自分の中の核をしっかり立てておいて、自己愛とは肩組んで時々抱きしめてもらう程度の関係を作っていきたい。 

「部屋とYシャツと私」みたいに、あなたのために綺麗でいさせて、ってのは対象と目的が明確で楽だ。 
でも楽できない私はせめて、愛する私のためにブス状態じゃない私で居たい。


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