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Inside,outside music(NCT/TAEIL)

音楽を透明な球に例えるとしたら、練習の時私はその中にいる。
初めはシャボン玉のように脆いそれは、内側から触れるとすぐ割れてしまう。ふりだしに戻って音楽をまた球にして、その中で触れて確かめながら音楽をかたちづくる。
音楽が壮大すぎて、自分がちっぽけすぎて触れられない時はじたばたとその中でもがいている。だんだん触れられるように、音を手繰り寄せる。球はどんどん私自身を直径にするように近付いてくる。
外からの様子は見えない。私の出す音は他者によって、また自分の耳によって繰り返し繰り返しフィードバックを受けながら磨かれて音楽の一部になる。

とても孤独だ。同時に音と私だけの世界は、とても豊かだ。

無我夢中で音楽の中にいる時、すごく苦しくて、すごくすごく苦しくて、すごくすごく生きている。練習を好きだと思ったことは一度もない。なのに音楽から離れないのはそれも含めて全部私だからだ。

演奏しながら、この球から抜け出して自分の手中に収め、自在に操りたいと願っている。もうずっと長いこと、私の演奏の到達点はその感覚を目指すことにある。演奏人生の3分の2はずっとこの球の感覚を持っているかもしれない。
でもまだ、一度もない。この球の中を出られたと実感する瞬間があったとしても、一度きりの本番はそんなに甘くない。舞台にいる魔物はいつも私を喰らい尽くす。この前の本番もダメだった。先生に「気持ちが大きすぎたかな」とお言葉をいただいた。音楽から飛び出して音楽そのものの形を失わせてしまった私は未熟というよりは自分勝手だった。
いつになったら自分の、自分の音楽の手綱を握ることができるのだろう。

私がNCTコンテンツの中で愛してやまないものがレコーディングビハインドだ。NCTコンテンツというか、私が生きている中で見ることのできる最も好きなテイルさんのお姿が残されているコンテンツというべきか。
その中でも最も好きな瞬間というのが、録り終わった後にブースから出てこられてご自身の歌を聞きなおす場面のテイルさんの表情というか、瞬きである。
これはあくまでも個人的な解釈だし実際にそうであるか尋ねるチャンスというのは一生ないだろうしだったら尚のこと憶測で語ることが許されるか分からないのだけど、その瞳や瞬きの様子から聴き始めはいつも大抵不安げに感じられる。ほんの何秒かしか収められていないけど、聴き終わりにはおおよそ納得したような表情になるように感じられる。その様子というのを同じ音楽をやる身として尊敬するし、たまらなく愛おしいなと思うのだ。

今回のレコビハでは、その時の表情がいつもと違うように感じられた。

12:51からのたった10秒間、初めはいつものように瞬きが多く、じっと聞いているのだが、音楽がサビに差し掛かったところで口角が僅かに上がるのだ。同時に目元の力がふっと抜け、目尻が下がったように見える。

ご自分の歌が存在する音楽に心が動いているように見えたので驚いた。

大抵のレコーディング風景でも、彼の笑顔というのは多くないように感じる。笑う時はディレクターさんに何か話しかけられた時や、自分の出来などの善し悪しを感じるのだろうかと思われる時で、今回も笑顔のシーンというのは「明るく」とディレクションされて口角を意図的にあげるために笑うのが追加された程度だった。

今まで私自身の音楽経験と強く重ね合わせることはなかったのだけど(そもそも畏れ多い)、この最後に音楽を聴いてふっと嬉しそうになる表情を見てハッとしたのだ。
テイルさんも、きっと最中は音楽の球の中にいてもがいているのではないかと。
急いでもう一度見直した。急に表情や様子が自分の心に重なってくるような気がした。

私の場合はディレクションではなくレッスンだけど、基本的には満足するまで疲れていてもやめない。感覚を掴むまでは繰り返し試行錯誤が必要だし、何度も音を出すことで細かくフィードバックをもらうことができる。
時々、理屈でもなんでもなく、頭が理解する前に「わかった、これだ」と思う瞬間がある。説明できないけど、そういう時はもう体も感覚もその表現の機微を掴んでいて、その部分は心配が要らなくなる。レコビハにつき一度くらいはそんな風に勝手に解釈してしまうテイルさんの姿を見ることができる。
身体を存分に動かしながら試行錯誤して歌声を追求するテイルさんの姿が大好きだ。私は自分が歌うこともあるからか、その動きの根拠みたいなものを勝手に感じて、思いを寄せてしまう。

そもそも歌手がステージに立つというのは、そこで音楽をご自身の姿を共にしながら表現することで音楽を完成させるのだろうというのが私の考えで、特にNCTはへチャンがドキュメンタリーで語るように「公演型」のアーティスト(アイドル)なのだから、歌手がどのように歌う姿を見せるかというのは結構音楽表現に関わることだろうと思っている。

だから私はもちろん、ご自身が歌う姿を以てして音楽を完成させるテイルさんの存在をこよなく愛している。私にとっては、テイルさんの音楽はテイルさんの姿なしには「完成」しない。こんなにも歌う姿が付随することで音楽の解像度が爆上がりする歌手に出会ったのはムンテイルが初めてだ。
とは言え、ステージで歌う姿とレコーディングで歌う姿に違いがあって驚いたのもまた事実だ。ステージの上では音楽を乗りこなしてこんなにも音楽と観客を繋ぐというのに、レコーディングではその動きもさることながら、どうしてもその孤独さというか、孤高さみたいなものが際立っている。

でもよく考えれば当たり前のことかもしれないなと思った。もちろん歌手の数だけ、いや人の数だけ音楽との関わり方がある。同じNCTの中でも歌い方や音楽との関わり方はもちろんそれぞれで、だからこそ豊かでカッコよくて美しいのだ。私の中ではNCTは「みんな違ってみんないい」これに尽きる。

音楽の中でもがきながらひたすらよりよい表現を追い求めるテイルさんを見て共感するとともに、ブースから出てきて聴く姿にもまた思いを重ねた。

自分の声が入ることで完成する曲を聴くのはどんな気分なんだろう。商品でもあるわけだから、邪推ではあるがきっと心配なことや悔やまれる部分、そもそも悔やまれる部分があるとすれば、それが残ったまま世に出ることへの思いというのもあるかもしれない。そうなればあの揺れる瞳でしきりに瞬きする姿というのもなんともまた応援したくなる。

それを通り越して音楽を味わうような表情が今回見られたというのは、この曲への思いを垣間見たようで、ますます心から愛おしくなった。
そしてこの姿というのは、きっと音楽から抜け出して、一リスナーとしてこの曲を味わった瞬間でもあったのかと思うと、そういう姿を見るのは初めてだったので、とっておきの、宝物のような瞬間を見せてもらったなと思っている。
「N.Y.C.T」いい曲だもんね。へチャンとテイルさん、二人の言葉と声ととっておきの音で出来てるんだよ。すごいでしょ、ねぇテイルさん。私の最愛の歌手の歌だよ。

テイルさんが音楽を創っていく過程というか、音に対する意識についても思うことがあり、それはいつも心の中で味わいながら一人で愉しんでいる。とても感覚的で、言葉にして誰かと分かち合うにはあまりに不明瞭なものなのだけど、自分にしか分からないものがある、というものまた特別感があっていいなと思う。

音楽の話をするテイルさんが大好きだ。でもそんな話を飛び越えて訴えかけてくるテイルさんの歌声も、その音楽を完成させるお姿もやっぱり大好きなのだ。

たった今の姿を見ることはまだ叶わないし、そのことについてずっと、ずっとずっと私は、自分が思うよりも揺らいでいるわけだけど、今この文章を書くことで、やっぱり私はテイルさんが音楽と共にいる姿によってしかこの心を満たすことができないと思いを確かにしつつある。
テイルさんはテイルさんでたった今様々な思いを抱えながらやるべきことを当たり前にやっているだろうし、そこには彼の「Will Be」というマインドがあるだろうと思う。過去の自分に寄り添った作業経験が今の彼を支えてくれているといい。私がテイルさんの音楽に支えられているように、また彼にとっても音楽が支えであってほしい。

音楽の内と外。そのどちらもが愛おしく、その只中にいられることは幸せな事なんだと実感できた、という話でした。。。(最後をあきらめた)




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