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昨年の大晦日、1年を締め括り新たな気持ちで新年を迎えようとする日に友人が交通事故に遭い亡くなった。忘年会帰りの飲酒運転の車に轢かれた。私の1年は愛する人の告別式から始まることになった。
時間だけが進んでいく毎日で、私はそれに逆らってずっと過去を生きていた。私だけが2022年に取り残されていくような気がした。
既読の付かないLINEに何度もメッセージを送り、呼出音だけが鳴り続く電話を掛け続けた。
私の沈みように周囲はことあるごとに私の体調や精神面を気にかけてくれた。
こんなことではいけないと、何かに没頭するように気を紛らわせねばとそれまで以上に仕事に固執するようになり、家に帰っては1人で泣き、仕事も思うようにできずまた1人で泣いた。
私生活も仕事もなにひとつ上手にできない自分が腹立たしく情けなかった。


3ヶ月後、うつ病になった。休むべき時に休まず動き続けてしまったから、精神が蝕まれていくのに自分でも気づけなかった。
けど、なんとなく遅かれ早かれどこかでそうなる気もしていたから、診断された時もああやっぱりなとなんだか他人事のように思っていた。
うつ病になるのはこれで2回目だった。


3年前にも同じように身近な人との別れが重なり心を病んだ。ある日突然通勤途中の電車で手足が震え動悸が早くなるようになった。吐き気や頭痛を繰り返すようになり、服を着替えたり化粧をしたり身支度を整えるのが面倒になり、何もないのに涙が溢れてくるようになり、玄関のドアを開けるのが怖くなり、ベッドから玄関までの距離を何キロも先に感じるようになり、ついには起き上がることが出来なくなった。
心療内科に通っているところを知り合いに見られるのを避けたくて哀れみの目を向けられたくなくて、自宅から離れた場所の病院を探した。

評判の良い心療内科を見つけ、1年近く通院した。
電車で1時間以上掛かる上に梅田で阪急から阪神に乗り換えなければならず、人の群れを掻き分けて歩くのは本当に苦痛だったけれど、これもリハビリのひとつだと思って耐えた。
1度うつ病を発症した患者の10年内の再発症率は50%を超えるらしく、回復してからも3年は薬の服用を続けるように指示されていた。
それなのに。自己判断でもういいだろうと途中で通院を辞めてしまったのだった。


今年の春を迎える前に、またうつ病になり自宅に引きこもるようになった。あの頃と同じ病院、同じ医師、私は何も成長していないなと思った。
冬に取り残されたまま、季節がどんどん巡っていく。外に出る度自分の服装と道行くひとの服装の季節感のズレに戸惑った。
うつ病の症状は人により異なるけれど、ざっくり説明するならば、人の三大欲求である食欲・睡眠欲・性欲がなくなり希死念慮というこの世から消えてなくなりたい、死んでしまいたいという気持ちに四六時中苦しめられる。そしてなにも出来ない。


何も出来ないから、ベッドに横たわり天井を見ている間に一日が終わる。お腹は空かないから冷蔵庫の食べ物はどんどん腐っていったし、眠くならないから3日間起き続けていたりした。睡眠薬に頼るしかない。性欲なんて真っ先になくなり、人から良く見られたいという気持ちすら失うのでボサボサの髪の毛とヨレヨレの服で外出することになんの躊躇いもなくなる。この先自分はどうなってしまうのだろうかの不安でいっぱいなのに、そんなことを心配している余裕なんてない。


初めてうつ病になったとき、働きながら会計士資格取得の為の予備校に通っていた。職場と予備校と自宅の往復。勉強に専念している人も居れば、私と同じく社会人として働きながら勉強している人もいた。2年間のコースのうち1年半を修了したところだった。半年後に試験を受けて憧れの職業へと歩みを進めるはずだった。模試の結果も悪くなかった。
でもうつになり、何も出来なくなり、勉強から離れてしまった。
テキストを開かなければと思うのに、出来ない。悔しくて惨めで毎日泣いた。今までの1年半はなんだったんだと震えながら泣いた。予備校代の80万はもう返ってこない。


退勤すればすぐに耳にイヤホンをさして企業法の条文を頭に流したし電車の中では監査論のテキストとにらめっこしていたし家に帰ったら机に直行して財務会計の問題を解いた。日付が回る頃まで机と向き合い、急いで簡単な食事とシャワーを済ませて寝る前にもう一度テキストを開いて就寝し、翌朝同じところを開いて反復し家を出るギリギリまで管理会計の問題を解いた。
休日は10時間を目標にして勉強した。8時間のときもあったし12時間の時もあったけれど、とにかく休みはまとまって勉強できる貴重な日だったから、友達や職場の人からの誘いを何度も断った。
外を歩く時も電車の中も休憩時間もずっと勉強に時間を使って、大好きな読書だって我慢した。そうやって色んなことを犠牲にして捧げてきたものが、一瞬のうちに自分の手から失われていく。怖くて悔しくて情けなくて、それなのに諦めが悪くて毎日泣いた。
同じ時期に勉強していた仲間たちが無事に合格してお祝いムードに包まれている時も、心から祝福することが出来ず、そんな自分が許せなくてそんな自分が大っ嫌いでまた泣いた。


今は休むことが最優先ですと宥められ、勉強のことは忘れるように努力した。
1週間のうち、外出するのは通院の時くらいだったから、受付のひとの「お大事にしてください」や薬局のひとの「マスクかわいいですね」が薬と同じくらい心に効いた。帰りに病院の最寄りの花屋で小さな花束がいつも数百円で売られていたから、毎週買って帰るうちにお店の主人に顔を覚えてもらい、少し多めに花を包んで貰ったりした。家に飾ってその花を見る度に人の温もりと優しさを思い出した。

職場の上司が1週間に1度体調を気遣う連絡をくれた。コミュニケーションが大事ですよ、日光を浴びるといいですよ、と2週間に1度近所の喫茶店まで会いに来てくれた。
「こんなことを私の立場から言うのは良くないとは思うけれど、今の会社を社会に戻るための踏み台にしてもらって構わないですからね」とまで言ってくれた。調子のいいときだけ出勤して、徐々に慣らしていきましょうと提案してくれた。週に1度でも1ヶ月に1度でもいい、外に出て人と接することが大切だと言って私の人生を一緒に考えてくれた。

そして休職中に、1度だけ出勤した。手足の震えや喉の乾きや吐き気も腹痛も酷くなっていたけど、自分が生きている意味が欲しくて誰かに必要とされたくて自分の居場所が無くなっていないことを確かめたくて下唇を噛み締めながら電車に揺られて出勤した。

痩せて顔色が悪くてニコリともしない変わり果てた私の姿を見て、誰もが驚いていたし困惑していた。明らかに距離の取り方を計れずにいるし、触れてはいけないもののように感じているのだろうなとすぐに気づいた。
以前いつもことある事に本の話を聞かせてほしいと言ってくれて、なんでも知っててすごいね、接客も丁寧で夢があってまだ若いのにすごいよと毎日褒めてくれたお兄さんがよそよそしくなってしまったのが1番悲しかった。
けど理由は私にあるので仕方ないと飲み込んだ。
入社したときからいつも面倒を見てくれたお姉さんは今まで以上に優しく声をかけてくれた。精巧なガラス細工でも扱うように接してくれた。
なのに、その頃の私にはその優しさが辛かった。自分ではなにも出来ない、接客業なのに接客ができない。同じお給料を貰いながら、裏で必要の無くなった書類をシュレッダーにかける作業ばかりしていたり、納品された商品を仕分けるだけの作業をしていた。今別にやる必要のない作業を私のために用意してもらっていて、心底申し訳なかった。
優しくされてもおなじものを返せない。微笑みかけられても笑い返せない。してもらってばかりの自分が情けなくて、働くことで惨めな思いがより一層強くなるだけだった。


薬の量は増え、通院の回数も増えた。
障がい者手帳の発行を勧められた。3割負担の医療費が1割で済むようになる。交通費に割引が適用される。
病気の間に貯金は底を尽きてしまい、生活費をカードローンで借入れていた。
親に頼めば出してくれたに違いないけれど、お金を貸してほしいと親に頼むのがストレスで、そのストレスを抱えなくて済むのならカードローンに頼ったほうが気持ちが楽だった。これ以上人の手を煩わせたくなかった。これ以上惨めな思いをしたくなかった。


役所に提出する為の診断書を書いてもらった。


2020年6月頃より強い不安感、不眠症状が継続し来院された。確実に異常な程度の強い抑うつ気分が一日中継続しており興味、喜びの喪失もあり、易疲労感も強い。情動反応の減少、午前中の抑うつ状態悪化、焦燥(家族よりの指摘)と不眠症状あり。CES-D 43/60と中等症うつ病エピソードと診断。抑うつ感にレクサプロ 10mg/day、リフレックス 7.5mg/day、不安感にソラナックス 2.4mg/day、抑肝散 7.5mg/day、不眠症にマイスリー 5mg/dayにて治療中。


それが私の状態らしかった。
言葉で自分の病状を整然と述べられると余計惨めで怖くなった。
それを見てから、なぜか不思議と人生を取り戻さなければいけない気持ちが徐々に湧き上がった。
手帳発行の申請をして、審査と発行までの2ヶ月弱の間に私はまた働き始めていた。手帳は受けとってない。

元の職場に直ぐに戻るのは前と同じことの繰り返しになりかねないので、調子のいい日に日雇いのバイトを探した。人との会話の少ない工場作業や倉庫内の仕分け作業に応募して生活費を稼ぎつつ外に出る練習と人との会話のリハビリとを繰り返した。
なりたかった職業の為に奔走していた日々と自分の置かれている現状とのギャップに何度も悲しくなったけれど、今日も生きててえらい、今日も死ななかったえらい、と自分を褒め続けた。それしか褒めるところがなかった。


しばらくその生活を繰り返したあと、元いた職場に復帰した。少しづつまた笑えるようになったし軽い冗談も言えるようになった。ご飯を美味しいと感じながら食べれるようになった。夜眠れるようになった。朝起きて絶望することも無くなっていった。
けれど、生活費の為に借入れて積み重なった70万近い借金が残った。
お金の余裕は心の余裕と言うけれど、まさにそうだなと思った。もちろん、人としての品性やあり方に裕福さは関係ないと思うけれど、未熟だった21歳の私には70万の負債は悩みの種で、それがいつも頭を占領していた。
月々の返済では、私がその悩みから開放されるのはもうずっと何年先にもなってしまう。元気になったのに、病気の頃の不安に縛られている気がした。


だからお昼の仕事とは別に夜小さなラウンジで働き始めた。
出勤した日のお給料を次の出勤時に受け取るというシステムで、2回目の出勤から毎回名前の書かれた茶封筒を持って帰ることが出来た。
そして毎回その中から全てのお札を取り出し、帰りにATMに入金しに行った。小銭は別で置いておいて、溜まった頃にまとめて入金しに行った。
普段の生活費はこれまで通りお昼働いた給料でやりくりし、夜働いた分は全て借金の返済に充てた。
朝も夜も働くダブルワークの生活は睡眠時間も体力も削られ、時にはアルコールの残る状態で朝の満員電車に揺られなければならず過酷だったけれど、少しづつ減っていく債務残額を見る度、今日も頑張ろうと思えた。今日も働いてえらい。生きててえらい。死ななくてえらい。


その生活を2ヶ月ほど続けて、借金を全て完済した。何社からも借入れて、ひとつずつそのローン会社のアプリを消す度にあと○社、あと○円、と完済する日を夢見た。
全てのローンを払い終え、数字が0になり最後のアプリを消したとき、自然と涙が流れた。
何度ももうダメだと思ったし死にたいと思ったし嫌なことも我慢したけれど、病気の自分が作った借金を全て無くせたことで、全てを過去にできた気がした。
またなんでも始められる気がしたし、病気から回復してから初めて未来を考えた気がした。
やりたいことをやってもいいのだと思ったとき、真っ先に頭に浮かんだのはまたもう一度勉強がしたい、だった。

でも、何社からも借り入れをして、完済したばかりだったからなのか収入が足りないと判断されたのか他の理由からか分からないけれど、とにかく会計士講座のローンの審査に通らなかった。80万円を一括で支払わなければならなかった。

だから、大きな決断をした。借金を返済後辞める予定だったラウンジを続けることにして、代わりにお昼の仕事を辞める決断をした。
家族のように接してくれた上司とずっと同じ会社で働きたかったし、あんなにも温かい人たちばかりの会社はそうないと分かってる。自分がまた社会に復帰出来るようになったのも周りの支えがあってこそで、今自分が生きているのもその人たちのおかげだと身に染みて思う。それでも、その仕事をこの先もずっと続ける予定はなかったし元々順調に試験に受かれば辞める旨は伝えていて、それを応援してくれてもいた。本当に良い職場だった。


それまで週に5日、20時から深夜の2時まで働いていたラウンジのシフトを週7日、20時から朝の5時までに変えた。お昼前に起きて夕方までは勉強時間とした。定休日は無い店だった。
偏見のある仕事かもしれないけれど、やるならばちゃんとしなければいけないと思い少しでもお店に貢献出来るように試行錯誤した。
教えてくれる人がいなかったので、ネットでマナーを調べたり接客の仕方や連絡の仕方や、有名キャバ嬢の方たちが水商売を始めた人に向けてYouTubeに投稿しているマニュアル動画を見漁った。
派手な服を買い靴を買い化粧の仕方を変えたり、お客様の層に合う年代の歌を覚えたり、話についていけるように、アニメも見たし漫画も読んだ。お酒を煽るコールを、紙に書いて覚えていたら、コールをそんな風に覚えている人を初めて見たと言われた。
洋服を売っていた頃、商品にさえ詳しくなれればいくらでも話せたし購入に繋がった。
けど、この世界ではお酒をセールスするわけではなく、初めの頃は何を話せばいいのか全く分からなかった。
下ネタについていけず、愛想笑いで誤魔化していたら、嘘でもいいんだから場をしらけさせちゃダメだよとお客様に叱られた。
なのでその次からは、相手を見て返事を変えた。
最後にやったのいつ?と聞かれて、彼氏がいた時の1年半前ですと本当のことを答える時もあれば先月ですとか先週ですとか昨日ですとか答えることにした。

分からないけど分からないなりに頑張っていたら、気づけば足を運んでくれるお客様が沢山増えて、小さなお店だったけれど、人気の子と認めて貰えるようになった。
会計士の予備校代を貯めていると話すと、サラリーマンを辞めてから医大に行き医師になったという努力家なお客様に気に入ってもらった。
働きながら司法書士を目指しているという同じ境遇のお客様にも気に入ってもらった。本の話や歴史や地理の話を振られ、私がそれに応えることができると大変喜んでくれた。
類は友を呼ぶのか、本が好きな私のお客様は同じように本を読む方が多くて、遊びに来てくださる度に10冊近い本を持ってきてくれる方もいた。
税理士をしているというお客様に気に入ってもらったとき、ブランドのバッグをプレゼントしてもらった。
今までそんな高価なものを貰ったことが無かったので本当に受け取ってしまっていいのか戸惑ったけれど、応援しているという気持ちを受け取って欲しいと言ってくれたので、有難く頂くことにした。
お店に立寄る度、お店の女の子みんなが食べられる量の手土産を持ってきてくださる方が居て、冷めたら電子レンジであっためてねと言われたので、お店にレンジないんですと言うと「行くよ」と言い近くのドンキで電子レンジを購入してくれた。
受け取ったものは数え切れず、なぜこんなにも良くしてもらっているのかと怖くなった。恩を感じている人を挙げればキリがない。いつもいつも本当に有難いなと思っていた。


その人たちのおかげで、お昼の仕事を辞めてから5ヶ月ほどで予備校代と当面の間の生活費が用意できた。
勉強に専念できるくらいの金額が口座に貯まった。
だがこの世界ではあるあるらしいのだけれど、最後は綺麗に辞められなかった。
1か月前から何度も辞めますと伝えていたけれど一向にその気配がなくて、一方的にこの日で辞めますと言い切って辞めた。もちろん向こうは納得していなかった。
私が借金を返済することが出来たのも、必要なお金を貯めることが出来たのも、そのお店で働かせてもらえたおかげでありオーナーには感謝していたので、出来れば綺麗に終わりたかったけれど、そうはいかなかったのが少し心残りだった。
自分の人生を歩ませてくださいと言って辞めた。



辞めた翌日、2度目の会計士講座の申し込みをした。1万円札が80枚入った分厚い封筒を申し込み受付の人に手渡すときは手も足も唇も震えた。
泣きながら貯めたお金。吐きながら稼いだお金。浴びるほど飲んだお酒は全てお金に変わり、そしてそのお金は自分の未来への投資資金となった。
ここまで来た。やっとまたスタートラインに立てた。
勉強出来るのが嬉しくて、もうお酒を飲まなくていいのが嬉しくて、笑いたくないのに笑うことも、自分じゃない自分になるのももうしなくて良くて、やっと人生を取り戻した気がした。


それなのに。自分で掴み取った自由を、自分の手で壊した。勉強に専念した期間は2ヶ月で終わった。
友達にお金を貸してくださいと頼まれた。
お金の管理に人一倍厳しく潔癖なその人に、1番似合わないセリフだった。
事情を聞くとどうやらその人のせいで出来た借金では無いらしく、騙された上に病気にかかり手術代が払えないらしかった。
本当はずっと前からお金に困っていたけれど、そのセリフだけは言いたくなくてなんとか凌いできたが限界だったらしい。かつてあった覇気がなくて、心まで病んでいるように見えた。

お金が無い辛さも、心を病んでしまう辛さも自分には痛いほど分かる。
悩んだけど、口座にあった貯金を全て引き出してその人に渡した。プラスがゼロになるのと、ゼロがマイナスになるのは全く心の持ちようが違う。
もしも自殺を考えるようになったら、手術が受けられず病状が悪化してしまったら、そのせいでその人が死んでしまったら、私はこの先死ぬまで自分を許せないかもしれないと思った。隣にいた人が死んでしまって私はうつになったのだ。もう誰も居なくなって欲しくなかった。


私の貯金だけでは足りず、私はまた勉強しながらキャバクラで働き始めていた。
昼は予備校に通い、自分の為では無いお金を稼ぐために働いた。そんなエネルギーが一体どこにあったのだろうと今になって思う。
「この人に死んで欲しくない、また前みたいに笑ってて欲しい」それだけだった。


試験前はさすがにシフトを減らして調整し、勉強に専念した。
けど、落ちた。ダメだった。
4教科のうち半分は完璧で半分はボロボロ。会計を扱う職業を目指しているのに、計算科目が壊滅的だった。
働きながら続けたからだなんて思わない。その人のせいだとも思わない。
単純に実力がなかった。向いていないなと思った。試験は受かるかどうかだけが大切で、そこまでにどんな過程があろうと関係は無い。
その現実を受け入れるのに少し時間が必要でしばらく引きずった。


もう諦めたほうがいい気がした。というか、考えれば考えるほど試験のときの記憶が蘇り、机に向かうことがトラウマになっていた。
就職活動をし、あっさりと内定をもらった会社になんとなく入社して、なんとなくの日々が始まった。
目標を無くしてしまった自分にとって、どこに向かって歩いているのか分からない日々は怖かった。
その頃もまだキャバクラとの掛け持ちは続いていたけれど、店舗は変えた。
元々いたラウンジを綺麗に辞められなかったから、その近くで働くのはもし万が一繋がりがあった場合気まずくなってしまうと思い、少し離れた街で働いていた。
辞めてしばらく経ったのでもう気にしてないだろうと思い自宅からそう離れていない距離で探したのだった。


なんとなく入社した会社と、新しく入店したキャバクラ。
キャバクラの更衣室のホワイトボードには各個人の名前が書いてありその上にはその子の売上が記入されている。脇の張り紙には、先月の売上の順位が写し出されていた。
誰かと競い合うことが苦手だった。
けれど、その数字が低ければ仕事をしていないと思われるのではないか、その数字こそ全てなのでは無いか。存在していいのかどうかがそれで決まる気がした。そんな強迫観念を持っていた。


昼の稼ぎで生活費を捻出し、夜働いたお金を友達に渡す。
そして昼夜ともに新しい場所に入社・入店してから1か月が経った頃、友達が事故で亡くなった。お金を貸している人とは別の友達。また会おうが叶わなくなった。冒頭に戻る。そして祖母の命も残りわずかだと知らされた。身近な人からひとりずつ、みんないなくなる。

それまで以上に仕事にのめり込むことになった。没頭して忘れたかった。
お昼の会社の人も、夜のお店の人も、みんな優しかったのに、自分は笑ってちゃいけないような気がしていた。仲良くなっちゃいけない、仲良くなれば弱さを知られてしまったら、今にも泣き出しそうで自分から分厚い壁を作った。
ひとりでいい。仕事しに来てるだけだから別にひとりで大丈夫。仲良くなんてならなくていい。そう思って尖っていた。
本当は毎日泣いていた。朝出勤してトイレで泣いた。お昼ご飯は一人で食べた。休憩時間はトイレか近くの公園かで一人になって、退勤したら直ぐに会社を出た。ぼーっとしながらヘアセットをしてもらい、夜出勤して携帯とにらめっこした。分厚い分厚い壁を作って、話しかけないでくださいというオーラを放った。退勤して自宅までの送迎車に乗らないこともあった。今日送り大丈夫ですと断って、タクシーを拾って後部座席でマスクの下で静かに泣いた日もあった。家に帰って泣いて、部屋はどんどん散らかっていって、コンビニのご飯が増えて、お風呂に入るのが面倒で。
本当は、助けてって言いたかった。でも誰にも言えなかった。
それが2ヶ月続いた頃、お金を貸した友達からの連絡が途絶えた。
そして、共通の知人に連絡をとったところで、全てが嘘で騙されていたのは自分のほうだったと知った。病気になんてなっていなかった。嘘だった。え?あの時一緒に旅行行ったよ?と言われた。お金に困っていたのは本当だと思う。だけど、その人にとって自分がどういう立ち位置に置かれているのかを完璧に理解した。


あ〜〜〜〜〜〜〜なるほどね〜
私ってなにやっても上手く出来ないんだ。
と思った。
結果がすべて。何一つ残っていない。私って今まで何してたんだっけ。

それから少しずつ壊れていった。元からもう壊れていて、なんとか保っていただけなのかもしれない。
ある日突然、もう全部がどうでもいい、どうにでもなれと思って昼の仕事も夜の仕事も無断で休んだ。
どっか遠くに消えてしまおうと思っていたら、1度お店に来たことのある人からLINEが来て、今日いる?と連絡が来た。
あ〜めんどくさいな〜と思いながら、なぜか指が「パフェ食べたい」と打って送信していた。

夕方待ちわせてパフェを食べながら(休んだ罪悪感で全く味がしなかったのを覚えてる)、今日は休みだよと告げた。そんなことはない。通知には店長からの出勤確認のLINEと電話が来ていた。
なり続けるのが鬱陶しくて、風邪です、と嘘をついて通知を切った。

パフェを食べた後どこかで飲もうよと下心丸出しの顔で誘われたが、もうなんでもいいやと思い頷いた。
ゲームで負けた人が一気飲み。身体にアルコールを注ぐためだけのゲームを何時間も続けてベロベロになっていった。
泥酔しながらも、どこかで俯瞰して自分を見ていて、あ〜このままホテルに連れていかれたりするのかな〜、もう、なんでもいいや。と思っていた。

距離がどんどん近くなる。ソファ席の端に座っているのに壁にどんどん押し寄せてくるように密着してくるのが嫌だった。
肌に息がかかる。嫌だったけど、それもどうでも良くなっていた。
でもお会計を済ませてそろそろ出ようかという空気になった時、唐突に吐き気がした。
アルコールのせいもあるけれど、それよりもこの後本当にこの人と体を重ねるのか?と想像すると全身が鳥肌立ち気持ちが悪くて逃げたくなって、そこにアルコールの酔いが作用してトイレに駆け込んだ。
吐きながら電話をかけたのは勤めているキャバクラの店長だった。
もうぜんぶどうでもよかったのに、自分の身体を触れられるのは嫌だった。
風邪だと言っておきながら、ベロベロになるまで飲んでいる。泣きながら助けてくださいと言った。自分から身を投げに行ったのに、土壇場で助けを求めた。
見捨てられても仕方ないのに、見捨てられなかった。車で迎えに来てくれて、その中でずっと泣いて謝った。
後日、そういえばあの人ホテルに持って帰れなくて悔しそうな顔してたなぁ〜と店長が笑いながら教えてくれた。


その一件の騒動があった次の日から、私は昼も夜も休んで引きこもりになった。
もしかしたら、そうなのかなと思って診察券を引っ張り出して3年前と同じ心療内科に行くと案の定うつ病の診断を受けた。
診断書を書いてもらい会社に提出した。診断書の写真を店長に送った。


毎日電話を掛けてくれた。ご飯食べたか、寝れてるか、お風呂入ったか。何も食べてないと言うとコンビニで大量に食料を買って手渡してくれた。何か食べに行くかと何度も連れ出してくれた。
食欲がなくて何も食べれないと言うと、まあとりあえず話そうかと言っていつも通り自宅まで迎えに来てくれて、近所をドライブした。その時初めて桜が咲いていることに気づいた。
でももう散り際らしかった。
取り残されていく感覚。自分だけ春をやってない。知らないうちに梅雨も終わった。
それでも毎日電話をかけてくれた。いつでも連絡していいからと言って、お腹すいたら言えよと笑ってくれた。


死ぬ間際に流れる走馬灯のエンドロールで、恐らくかなり序盤に登場するであろう人物が一人増えた。
たまにリハビリも兼ねて店に来てみたらどうかと提案してくれた。別に働かなくてもいいし、1時間だけでもいい。30分でも10分でもいい、外に出るきっかけにしてくれたらいいと言ってくれた。
かつての上司とおなじだった。

毎日電話で様子を尋ねてくれる。電話に出るのもつらい時はメッセージで。
だから、少しずつ戻れるように頑張ろうと思えた。
何日もお風呂に入っていなかったりしたけれど、それを少しづつちゃんと毎日入るようにした。化粧なんて久しくしてなかったけれど、してみる。髪の毛も綺麗にしてみる。
清潔な服に着替える。そしていざ玄関のドアを開けようとする時、足がすくむ。どうしても踏み出せなくて、一旦落ち着こうと部屋に戻る。
1時間が経ち2時間が経ち、3時間が経ち、もう今日は無理だと諦めるのを何十回も繰り返した。


迎えに行くからと言ってくれた。
やっと用意をして外に出ることが出来た。
でもその先にはもっと試練が多かった。
迎えに来てもらったはいいものの、向かっている途中で涙が止まらなくなってUターンして帰ったことやお店の近くまで来て車を降りて歩いてる途中でやっぱり無理になり帰ったことも、それを何度も繰り返してようやくお店にいけた時も、やっぱり涙が溢れてきて2.3時間で帰った。
一人でも行けるようにならなきゃとバスに乗って、降りるはずの駅で降りずに通り過ぎ、結局迎えに来てもらったことも、一人でお店の真下まで来たのに急に怖くなって走って遠ざかって近くの公園で泣いているところを迎えに来てもらったりもした。
少しずつ少しずつお店に行ける回数を増やして、少しずつ働ける時間が伸びた。
ずっと涙をこらえて座っていて、お酒を作る時に手が震えたし自分が何を喋っているのか頭が回っていなかった。



でも、確実に前に進んでいる感覚はあった。
確かにもう10月になってしまったし半年以上も経ったのに未だに涙が止まらない日があるけれど、それでも日常を取り戻しつつある。周りのおかげでしかない。
大きなゴミ箱のようなありさまだった部屋を綺麗に片付けたし、溜まっていた洗濯物を綺麗に片付けた。本がまた読めるようになった。


けれど、今の生き方はいったいどれぐらい生きるつもりの生き方なのだろうかと問いかける。
週に何度か出勤して、お金が貯まれば旅に出る。
お昼の仕事にはずっと行けていない。
のらりくらり生き過ぎていて、自分は本当にだめだなと思う。
順位なんて、下から数えたほうが早かったのに、休んでいる間に掴んでいたお客様も掴みかけていたお客様もどんどん離れていったのに、それでも何一つ変わらず、そこにいることを許してもらっている。
周りのみんなが眩しい。ちゃんとお客様を呼んで仕事をしている。
負けたくないと常に数字と向き合っているプロ意識の高い先輩がいる。
お誕生日にお客様に沢山営業を掛けて、プレッシャーに押しつぶされながらもきちんと結果を出している先輩がいる。
同じ時期に入店した女の子が、どんどんお客様をつかまえて自分との差が開いていく。


何一つ上手くできない。
けど、ようやく普通に働けるようになって、もう大丈夫だと思ってもらえるようになって、腫れ物に触るような接し方じゃなくて、ちゃんと対等に接して貰えるようになって、今更、毎日が辛くてしんどくて、なんて言えない。いつも泣いてる子のイメージがやっと無くなったのに、もう心配をかけたくない。
久しぶりに嘘をついた。胃腸炎になりましたと言ってズル休みをした。
本当はずっと家で泣いてるだけだったけど、言い出せなかった。


そしてそれが昨日爆発した。
お酒を飲みすぎたせいもあって、営業中に涙が止まらなくなってしまって、落ち着いたら大丈夫になると思って裏で1人になって深呼吸していたら、外に出ていた店長が店に戻ってきていて、顔を見た瞬間に涙が溢れた。誰かが呼んでくれたのだと思う。私が店長にしか本心を話さないから。


ちょっと抜けるか、と言ってご飯屋さんに連れ出してくれた。
食べながら泣きながら、話を聞いてもらった。とにかく自分に自信が無いこと、みんながすごくて比べてしまって辛くなってしまうこと、本当は胃腸炎じゃなかったこと、今でも生きるのがしんどいこと。このまま私はどうしようも無い生き方しか出来ないのか不安で仕方ないこと。

ずっと聞いてくれていた。
酔っていて実はあんまり覚えてないけど、でもいつでも変わらず受け止めてくれるので心を許していた。


ご飯を食べ終わってお店への道を辿る途中で、本当に戻れそうか無理そうなら帰るか聞いてくれた。
いつもこうやって、本心を言いやすいように問うてくれる。
そして私はいつもその優しさに甘えていたから、甘えてばかりだから駄目なんだよなと、お店に戻って最後まで働くことを選んだ。
また泣いてしまいそうだったけど、堪えた。
気遣いながら席着ける?と優しく聞いてくれたので大丈夫ですと返事をした。

団体の席に案内され、席に着いて話し始めると不思議といつの間にかスイッチが切り替わっていてさっきまで溢れそうだった涙が引っ込んだ。
しばらくすると黒服さんに裏に呼ばれ、さっき来てくれたお客様が戻ってきてくれると言ってるけど着けそうか、嫌じゃないかと尋ねられた。
私はそのお席で酔って、お見送りした後に泣きじゃくっていたから嫌なことでもされたかと思ったのかもしれない。
私はむしろそのお客様のことをすごくいい人だと思っていたし、戻ってきてくれるのが嬉しくて当然、大丈夫ですと言った。さっきよりも明るい声で言えたと思う。


全ての営業が終わって着替え終わってお給料を手渡されるのを待っている間に、また無意識にスイッチが切り替わり引っ込んだはずの涙が溢れてきた。
泣いているのを見られたくなくて、おしぼりを握りしめて済ました顔で個室の部屋に行き、広い部屋の隅っこで泣いた。
黒服さんが大慌てで追いかけてきて、おしぼりを顔に押し当てて泣いてる私を見て「〇〇ちゃんVIPでーす!水くださーい!」と叫んでいた。こだまするように他の黒服さんも「〇〇VIP!水ちょうだい!」と叫んでいた。
立ち上がらなければと思う私と、この顔を晒して歩きたくないと思う私とが居たけれど、私がここにいる限りこの人たちは帰れないのだと思うと、うじうじしてる場合じゃなかった。
涙を拭ききって、笑顔を作ってすみません、大丈夫です。と言って送迎の車まで送ってもらった。
お疲れ様でしたとドアを閉められたあと、この日送りをしてくれた黒服さんが着いたら起こすから寝ててもいいよと言ってくれた。
後部座席で、顔を下に向けてずっと声を押し殺して涙を流していた。
頑張って声が漏れないように気をつけていたけど啜り泣く声が聞こえてしまったのか何度か車内の明かりを付けたり消したりしていて、きっと泣いているのを知られてしまったと思う。
でもそっとしておいてくれた。
着いたよと声を掛けられて、涙をふいてありがとうございましたと伝えると、走って自宅マンションの階段を駆け上がった。
家に入り、荷物を投げ出しベッドに横になってまた泣いた。
悲しくて一人でいると無意識にでも自分を傷つけてしまいそうで、マンションの上階から飛び降りそうで、気づいたら店長に電話をかけていた。
これ、辞めなきゃって思ってたとこだったのに。
いつも話を聞いてくれる優しい人に、最近朝方に電話をかけて自分のことしか考えれてなくない?と言わせてしまった。ド正論過ぎて自分が恥ずかしかった。
私の朝5時とその人の朝5時は違うし、その人の時間を強引に奪おうとしている行為だって考えられてなかった。
もうしないからって言ったそれを、今度は店長にしてた。
かけてからまずいと思って切ろうとしたら声が聞こえた。
家着いた?大丈夫じゃ無さそうやけど、ごめんまだお客さんに付き合ってるわと言った。
最後のお客さんを送っていったのを見ていたけど、まだ一緒にいると思わなくて慌てて謝った。
すみませんごめんなさい大丈夫です。を繰り返すことしか出来なくて、「大丈夫じゃないと思うけど…家には着いたんやな?」と聞いてくれた。
店長は、私が今日みたいに泥酔して泣きじゃくった日にマンションの上階から飛び降りようとしたことを知っているから、それを心配したのだと思う。
電話を切る前に、「終わったらまた連絡するから」と伝えてくれた。

お店で泣き出して水を運んでもらったときに、持っていた安定剤と睡眠剤を飲んでいて、ちょうどその薬が効き始める頃だった。
少しずつ意識が遠のいていき、知らぬ間に眠りに落ちた。


私はちゃんと前に進んでいるのか、書き出したくなった。
今日は最悪な目覚めだったし飲みすぎたアルコールでお腹は下しているけれど、いつの間に落としたのかちゃんと化粧を落として眠りについていた。
絶対全部良くなる。少しずつ出来ることは増えてる。信じるしかない。
コンビニじゃなくてスーパーで買った食品が冷蔵庫にある。
自炊はしばらく出来てない。Francfrancの可愛い食器を集めるのが趣味だったくらい、料理が好きだったのに出来てない。
最近はレタスときゅうりとトマトと生ハムを買って、ちぎる・切る・並べるの簡単なサラダと、買ってきたおにぎりを食べてる。
でもそれすら私には回復の1歩だった。
洗濯したシャツにアイロンをかけたり、排水溝の掃除をしたり、ずっと出来なかったことを出来るようになってきた。
世間からすればどうしようも無いと思われるだろうけど、不安は尽きないけど、私は毎日生きててえらい。今日も死ななくてえらい。
みんな頑張っているのに、私だけが辛いみたいな顔をしていたくない。甘えずに生きられるようになりたい。守ってもらってばかりの自分をやめたい。
いつかまた自分の道を見つけて真っ直ぐ歩けるようになりたい。
いつも迷惑をかけてごめんなさい。もっと上手に生きられるようになるから、だからまだ見捨てないでください。お願いします。























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