ええやんと良いはちゃいまんねん。

どうも~、おいすでーす。ってね、別においすっていう名前ちゃいまっせ、ってね、でも見る人によっては「おいす」っていう名前やと思う人も居らはるかと想いますけれども、ちゃいまんねん。

ふしぎなもんでね、見る人によっては「おいす」っていう名前と思ったり、あいさつみたいなもんと思ったり、特に何も思わず聞き流したり、人それぞれかもしれませんが、これ人ぞれぞれですまさんほうがええんでっせ?

ここに「石」があります。わてら日本語つかうもんからしたら、「石」いうたら大体通じますが、それでも大体なんですわ。

日本語っていうのは、日本語の元が産まれてから今に至るまでの色んな状況を経たうえで、今の日本語になってるんです。ってことは、昔つかわれてた日本語と、今つかわれてる日本語は同じとは限らない、ということでっしゃろ。

せやけど、そんなもん言葉習い始めたころに知ってるかいうたら知らんがな、ってね、なるのが自然なことちゃいますやろか。知らんのは恥ずかしいことちゃいまんねん、劣ってもないし、負けでもない、ただ単に「知らん」でええんでっせ?

せやけど知らん知らん言うてたらね、諦めたらそこで試合終了だ、ってなんか聞いたことあるようなないような、さっしてくださいよ?昨今ハヤリのあれでんがな、なんとかけん言うてね、関係ない?・・・知らんがな。ってね。

とかなんとか言ってますけども、「石」ってのは日本語つかうもんからしたら当たり前に思う人がいるかもしれまへんが、これ大昔から「石」だったのかとかね、想いを馳せることもできたり。

外国語の英語だと、「石」いうたら「stone」っちゅうのは英語習ったことあるなら大体の人は知ってるかも知れまへんが、英語つかう人に「stone」見せて、「石」いうても本来は通じませんねん。でも本来は通じるもんでんねん。通じないけど通じる、おかしいようでおかしくない。さっする心、いうてね。

昔こんなことがあったとか、自分で見てきたわけちゃうんで真相は定かではありまへんが。

よ~ポンポンッ、大名行列のお通りじゃ~、道をあけ~い、ずがたか~い、よ~ポンポンッ。  はは~(一同ひれ伏す) みたいなね。

パッカラパッカラヘイヘイヒヒーン、数人の外国人がちょうどそこを馬に乗って通ったそうな。オ~ナンデスカコレハ、ナニカノモヨオシデスカ、チョットケンブツシテミルカ、とか、サキヲイソガネバ~ぱっからぱっからへいへいひひーん、みたいな感じだったのか、真相は定かではありませんが。

ええーい、まて~い、そこのものたちしばしまたれ~い!馬を下りよ~、みたいな流れで、ひともんちゃくあって外国人の人が斬られたそうな。

「石」と「stone」でんがな。さっする心があれば何とかなったかもしれへんことでんねん。せやけど不思議なもんで、人間が産み出した概念ちゅうんは、産み出したもんにとっては色々考えたり考えなかったり?して産み出してるから、こういう場合はさっすることもできたりするけど、産み出したもんじゃないもんにとっては簡単じゃないことやっちゅうことですな。

せやけど世の中、争い争い、そういうことを繰り返してきた結果、言葉っちゅうもんが、円滑なコミュニケーションをするためのツールから、べつのもんになってしもうとる、っちゅうことですわ。

本来、円滑なコミュニケーションは、お互いがお互いを想う心さえあれば、なんとかなるもんなんですけども、今の世の中、誤解をうむような概念がいたるところにあったりしますねん。わてら日本人も、普段の生活でそういうもんにしょっちゅう触れてるんですが、正確に言えば、自分というもんに色々シール貼ったり貼られたりして、気付かぬうちに自分がシールで隠れてしもうたりしてまんねん。

もっというたら産まれてきた時の自分にも既に色んなシールが貼られてるんでっせ。この話は長くなるんでまたいずれっちゅうことで。

バックパッカーみたいなことして外国を旅してる様な人ならさっしてくれるかとは想いますが、もちろんそうじゃない人にもいるかもしれませんが、言語の違う色んな人とコミュニケーションするのは簡単じゃないんですね。でも本来は簡単なことでんねん。それが簡単じゃなくなってるのは、色んな概念があふれた世の中で、感じるだけだと通用しずらくなってるからでんな。

感じるっちゅうんは、本能に依るもんでんねん。本能っちゅうもんは自分が引き継いだもんや自分の経験に依るもんで、そこから外れてるようなもんには通用せーへんこともありまんねん。

わてはここで、言葉として、ひらがな、かたかな、漢字、英語、そして関西弁ぽいの、べらんめぇっぽいの、色々使ってるんで、読みづらいと思った人は居るかもしれまへんが、さっする心と想う心、今風に言えば、理解と愛、みたいなね。どっちかだけやのうて、どっちもなんでっせ?もっというなら全部でっせ?

分け隔てなく、今だ現れておらぬ全ても含めて限りなく見据えて、はじめて「全て」なんでっせ。人によって「全て」いうても認知も認識も違ったりしますが、自分で「全て」が何か理解できれば、みたいなね。

こういうのを重く感じるのは、重くないものを、重いと思い込んでるからでんねん。実は重さなんかないんでっせ。なぜなら貴方は既に背負ってまんねん。そのことに自分で気付けてないだけでんねん。重くないでっしゃろ。気付いてないときは。そういうもんがそういうもんやと思い込んでるから重くないもんが重いと感じる。錯覚みたいなもんでんな。他にも言い方色々ありまんな。

はなしもどして、昔は日本にも今のバックパッカーみたいに、かわいい子には旅をさせろ、みたいなね、そういうのがあったいうていわれてますけど、自分で見てきたわけちゃうんでホンマかどうかはしりまへんが、今の日本でこれをやったら、ってね、そう感じるんは自然なことかもしれまへんね。

わては実際に日本中を旅したことはないんでアレですが、テレビのニュースとかネットの情報とか、今までの自分の経験とかで、そう感じるんは自然なことです。そう感じるってことは、あんさんにとってはそうって事かもしれまへん、っちゅうことでんねん。でもあんさん、あんさんは実際に旅しましたか、ってことでんねん。思い込まない決め付けないでんねん。

ただ、わての言葉を鵜呑みにして、旅をしたら、もしかしたらそういう事にもなるかもしれへん、ってことでんな。旅っていうもんの元を辿れば、そう簡単なことではなかったかもしれまへん、ってことでんねん。いまは旅をするのに色んなもんがあって楽になったり安全になったりしてますが、旅の本質は、道なき未知をゆく、みたいな感じっちゅうことでんな。

わての話は、色んな方向へ、しっちゃかめっちゃかしてる様に感じる人もいるかもしれまへんが、じつは全部が繋がってましてですね、せやけどこれが繋がってるとかんじられへん人にはみえへんもんでんねん。

おとうちゃんやおかあちゃん、お父さんお母さん、ダディーやマミー、ちいちゃいときにはわからんかったことも、なんやかんやでわかるときもくる、ってね。せやけど、そのわかるときもくるっていう「とき」が隠されてたら、簡単にはいかんもんで、そういうキッカケを与えられるんは、ちっちゃいこに与えてやれるんは、おっきいこっちゅうことやとおもいまへんか。

言葉のまんま受け取ったらあきまへんで、さっすることでっせ。想う心と察する心。察する心は理解すること、理解することは完全にはムリかもしれへんけど、理解しようとする事はできる、理解しようとするには想う心。すべては繋がっていて、無駄なものはないけれど、無駄と感じたら取り合えず保留にしたりしておいておく、頭の片隅にある引き出しにしまっておいて、使う必要があると感じたときに引き出してくる、みたいなね。さっしておくんなまし。

型は型でそれなりのもんではあるけど、型っちゅうんは型が通用するもんにだけ通用するもんで、型に囚われるとあかん、っちゅうことで、型に囚われるとあかん、っちゅうことに囚われてもあかん、っちゅうことで。

要はそういうこと、っちゅうことで、さっしてくださいまし。

キリがないので、今回はこのへんで。

おあとが続くかどうかは気分しだい、ちゅうことで、で、で続くんはでんがなでんな、でんがないうたらなんでやねんねんねんみたいな。こまかいところはさっしてな、なんとかけんでんがな。みたいな。

考える事も大事だけど、これに関しては感じてみるんだ!
結構面白いとおもうんやけど、あれでんがな、わいは面白く感じるけど、察する段階になってなかったら、なっててもボーっとしてたらわからんみたいな。ボーっとなんたらしてんじゃねーよ!みたいなこというてるのありますやん。さっしてね、なんとかk。みたいな。

このへんにするつもりがアレしたんで、こんどこそこのへんで。

最後に、タイトルが放置だけど、ここまで読んでくれてたら、さっすることもできるようになってるかもしれへんし、なってないかもしれへんけど、さっすることができるようになれば解ると想うんで。

ふくせんかいしゅうなんてかんがえてやってないんだからね!?みたいな感じでんがな。

おあとがよろしいでっしゃろか? ひとそれぞれかもしれまへんな。

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