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(あるいは複素効理論2.0)

複素効理論をアップグレードします。

複素効理論って?

「複素効理論(ふくそこうりろん)」は、2019年7月刊行の拙著『僕は偽薬を売ることにした』(国書刊行会)で公表したプラセボ効果に関する理論です。

その骨子は高校数学で習う「複素数」のアイデアを参考とし、医薬品が人体にもたらす薬効を薬理作用とプラセボ効果という二軸で捉える考え方。薬理作用を実数(のようなもの)として、プラセボ効果を虚数(〃)として把握し、その組み合わせで薬効を捉えることから、「複素効」の名をつけました(アイデアを共有するには名前が必須。たとえその響きの怪しさのみから「複素効理論?聞いた事ねぇし、あやしすぎだろ…」と捉える一部の人を遠ざけてしまうとしても)。

『僕は偽薬を売ることにした』の執筆時点で意識していたわけではないですが、この2019年7月時点の理論を初公開バージョンとして「複素効理論1.0」と定めましょう。

アップグレードの理由

「複素効理論1.0」も中々に面白く、複素数の四則演算のように治療行為をも何らかの演算として捉えられれば、治療実践の中で様々に活用できる見込みがあるように思いますが、より具体的かつ発展的な検討をするとすぐ困ることになります。

それは理論に具体性を持たせるとっかかりがないので、何らかの強い仮定を恣意的におかなければ何も言うことができないためです。例えば「還元麦芽糖で製された白色の8 mm径錠剤を常温水で服用させることをもって虚数単位のように扱う」など、極めて恣意的な基準の設定にならざるを得ません。

この難点は要するに、プラセボ効果を虚数に模して演算ができるかのように仮定したこと自体が無理筋だったのだろうと。治療行為を演算に見立てるご立派な応用可能性を求めたがゆえに、根本的な道理を軽視してしまったのかなと。そんな風に考えるようになりました。


だから、こんな無理筋理論は捨ててしまえ―――


なんてことはなく。

理論を救う道が、アップグレードによってより妥当な理論を構築する道が、どこかに残されているはず。

複素効理論は、手前味噌ながら、直ちに捨ててしまうには惜しい理論に思われるのです。

着想の原点を辿る

理論救済の道筋を見出すには、複素効理論という着想の原点にまで遡る必要がありそうです。

複素効理論という着想の原点、それはこんな考え方でした。

―――

科学にはルールがあり、そのルールから必然的に「科学には説明できない事柄」が生じる。そしてプラセボ効果は「科学には説明できない事柄」に含まれる。

―――

だからこそ、科学的に説明可能な部分(薬理作用)を実数とし、はたまた科学には説明できない部分(プラセボ効果)を虚数とし、これらを組み合わせて複素数的に何がしかを語ろうというのが複素効理論を提案したモチベーションとなっています。

しかし「複素効理論1.0」が上手くいかない理由は、実数や虚数といった(数学的に)非常に豊かな構造を仮定してしまったことにあるのではないか。

測定できるものを測定し、測定できないものは測定できるようにせよ。
ガリレオ・ガリレイ

そんな名言を意識しつつ、実数は測定できるけれど虚数は測定できないという考え方を前提として、「科学には説明できない事柄」を測定行為の可能性として解釈・表現し、間接的にでも測定可能性を実現してしまおうと望んだがゆえに、自ら困難な道を選んでしまったのではないか。

そんな風に思われるのです。

いや待てよ。だったら、そもそもの部分から改めて検討してみようじゃないか。もう一度原点から、つまりは「科学のルール」なるものから再検討してみようじゃないの。

科学の公理(ルール)

ある理論体系が前提としているルールのことを公理といいます。ここでも『僕は偽薬を売ることにした』に従い公理という言葉を用いますが、よくわからなければ適宜ルールと読み替えてください。

さて、科学の公理とは一体何でしょう?


その最有力候補は「自然の斉一性原理」です。


「え?なにそれ?」と思われたかもしれません。そもそも「斉一性」の読みが分からん(「せいいつせい」と読みます)。

また特に『僕は偽薬を売ることにした』の読者にとっては、本書記載外のことが突然出てきて面食らうかもしれません。「そんなことどこにも書いてなかったぞ」と。

その通りです。このように根本的な基礎的ルールほど意図的に把握するのが難しく、考察対象として見逃しがありました。すみません。

詳細には立ち入りません(ので余裕があればぜひWikipedia記事を、さらに余裕があれば下記参考ページを参照いただきたいのです)が、科学的論証が依って立つ基盤はこの自然の斉一性という仮想的性質であり、上に挙げた「原理」の名が示す通りこの性質は科学的方法で証明可能な事柄ではありません。科学という論理体系が前提として、すなわち公理として仮定せざるを得ない性質なのです。

―――

参考:「自然の斉一性:自然は信頼できるのか」http://geo.sgu.ac.jp/monolog/2009/88.html

―――

そして自然の斉一性を考察対象とするとき、ある極めて重要な概念に触れることになります。

それは「同じ」です。

本記事タイトルへの注

この記事が『(あるいは複素効理論2.0)』という曖昧なタイトルになっている理由は、今後しばらく、おそらくは「複素効理論3.0」が構想されるまでの期間に公開する記事のタイトル全てに『○○○○(あるいは複素効理論2.0)』という注釈が付加される予定ながら面倒なのでカッコ内を省略したいがため。

複素効理論2.0のとりあえずの大雑把な方針を本記事で示し、あとは他記事に委ねようという思惑によります。

したがって本記事これ以降の記載は極めて大雑把な内容になり、個々の考察は別記事に委ねられる旨、ご了承ください。

同じ

さて。

斉一。同じ。こうした基礎的な概念こそが科学を裏で牛耳っているのなら…と考えてみるとどうでしょうか。科学にとって説明不可能な事柄をも対象とするメタ科学理論たる複素効理論はどこか根本的な部分で「同じ」に紐づかなければならないでしょう。

もっとも純粋に考えてみれば、科学は「同じ」を定義できる対象のみを扱い、そうではない対象を扱い得ない

…のかもしれない。

客観性

同じという概念に関連して考えてみたいのは、客観性とは何ぞやという問題です。例えば何かが客観的であるという場合、そこにどのような判断基準があるのでしょうか。あるいは科学という論理体系の内側で客観性を定義するとしたら、どのような定義になるのでしょうか。

それは、例えばこんな風に定義されるのではないでしょうか。


同じ物や同じ行為を複数(少なくとも二つ)用意できること。


「同じ」が「複数」揃うことによって、はじめて(科学的)客観性があると言える。

一方数学では「複数揃える」という行為自体がナンセンス(あるいは完全な複製可能性がありいつでも複数揃えられるの)で、このことが科学と数学を分別する大きな性質の違いであるように思います。

数学とは異なるものを同じものとみなす技術である
アンリ・ポアンカレ

「同じ」を定義することは、数学をすることに他なりません。科学はさらに「同じ」を定義するだけでなく、それを具体的に「複数」用意せよと要請しているのではなかろうかと。これは何らかの検証可能性を担保するものとも言えそうです。

再現性

また科学にとって重要な性質である再現性と同じという概念についても考察が必要でしょう。

再現性とは、ある時ある場所で生じた現象を、別の時あるいは別の場所でも同じ現象として生じさせることができる性質です。

何らかの現象やその原因について「同じ」を定義できることは、再現性を語る上で前提となっています。「同じ」を定義できない事柄について、再現性をどのように表現すべきでしょうか?

また再現性は、時や場所(さらには人)を選ばず同じさを要求することから、科学にとって時間や空間の均一性を仮定してしまいがちな理由になっていると感じます。

Haskell

話はややぶっ飛びますが、そもそも「同じ」とは何ぞやという問題を深く考えるきっかけは純粋関数型言語に分類されるプログラミング言語「Haskell」の入門書を読んだことにありました。

そこにはこんな意味の記載があります。


「同じ」とは「違う」ではないことだ。
「違う」とは「同じ」ではないことだ。


これがHaskellの世界における「同じ」の定義です。めちゃくちゃ面白くないですか?この論理は循環して、


「同じ」とは「同じではない」ではないことだ。


という自己循環の二重否定という無意味な恒等論理へ直ちに行き着きます。

この循環を止める方法は、適宜「同じ」または「違う」のいずれかを枚挙的に上書き定義してしまうこと。

科学もまた同様の仕組みを取り入れており、広くは科学の分野において、狭い部分では科学実験の系において「同じ」を暗黙的に定義・共有しています。この暗黙的定義に光を当てるのが複素効理論だとも言えそうです。

対照実験とプラセボ効果

ここまでの流れから、プラセボ効果へのつながりを再確認しておきましょう。

プラセボ効果は例えば医薬品の臨床試験において対照群として設定される偽薬投与群に認められる治癒効果であり、何らかの意識の変容が治癒効果をもたらすものと考えられています。

さて、「意識」について「同じ」は定義可能でしょうか?「思い込み」や「期待」や「医療者と患者の信頼関係」について「同じ」は定義できるでしょうか?

今のところいずれも定義できない、と僕自身は考えます。

では科学はこれをどのように扱っているのかと言えば、「同じ」だと見做せるように実験系を組み立て、「同じ」をゆるく定義してしまうことにしているのではないか。

「同じ」を複数揃えるという客観性の基準に沿うように対照群を用意し、同じ条件からは同じ結果を得るという斉一性の論理を(やや変化球的に)当てはめるために対照実験を行う。

ただし「同じ」と定めた事柄から得られる肯定的な言明は唯一「同じ原因から同じ結果が得られたね(というか、いつでもそう見做そうね)」に限られます。実験群と対照群の「同じ」部分から何が起こり得るのか、実際に何が起こったのかを言明することはできず、ただただ「同じことが起こった」としか言えないというのが、科学という枠組みの限界でしょう。

さらにプラセボ効果自体は、いつでもその枠組みの外にあるという見立てが複素効理論から見いだされる発想です。

「同じ」を定義できない事柄、「同じ」を定義できるとしても具体的に複数用意できない事柄、あるいは実験系内で「(ほぼ)同じ」と見做さざるを得ないが実質的に多様性を有する事柄(例:集団に含まれる個々人の意識)などなど、科学の対象とならない物事が何がしかの結果を生じる原因になり得る…

集合論と圏論

「(ほぼ)同じ」と見做すテクニックの一つは、個々の要素ではなく集合として対象を捉えることです。要素同士ではなく、集合同士の比較で同じさを検討する時、集合同士の方がより同じであると言える場合があるためです。

同じさに順序の構造を入れるというテクニック。

このテクニックは集合論を基礎づける集合と元(要素)に関して、そのそれぞれの境界を溶かしあうランダム化という操作に基礎づけられているように思われます。

『僕は偽薬を売ることにした』執筆時点では、こうして(公理的)集合論の言葉で考えることが複素効理論を発展させるカギだと考えていました。

しかし。

Haskellとの関係で圏論(けんろん)という数学を知るとともに、この考えは変わりました。「同じ」について議論するなら圏論は必須じゃないか?

「ソーカル事件」と呼ばれる歴史的な事象に目を向けつつ、それでも数学的な概念を取り込むことに躊躇しない立場を複素効理論の提唱者としては貫きたいものです。

ゆるいまとめ

先に述べた通り本稿は複素効理論2.0の詳細に立ち入るものではなく、中心的なアイデアに触れることを目的に書かれています。ここまで書いたことを緩くまとめておきましょう。

- 科学には「同じ」に関するルールがある
- 「同じ」を定義できるという性質がある
- 「同じ」を定義できるものについて、それを具体的に二つ以上揃えられるという性質がある
- 二つ以上のものについて「同じ」と見做すテクニックを用いた実験は、客観的(≒科学的)だと評価される
- 「同じ」と見做すことにより失われる情報がある
- 「同じ」の定義は常に恣意的に為され、大半の場合は暗黙的に為される
- 「同じ」について議論するにあたり、数学・プログラミングの世界から魅力的なアイデアを拝借できそうな予感がある

そして複素効理論2.0が掲げる前提・信念としては、以下のようなものとなるでしょうか。

- ある事象は「同じ」についての性質を有するか否かに関わらず、結果的に生じる別の事象の原因として影響を与えうる
- 「プラセボ効果」は「同じ」を定義できない事象を原因として生じた結果を事後的に説明するために創造された概念で、特に人間の意識への言及を特徴とする

プラセボ効果をあっさり前提してしまう素朴な議論には飽き飽きしているので、もっとあやしげで蠱惑的な議論を展開したいなというわけで。

今回は旧版として扱った「複素効理論1.0」にもその萌芽的内容は十分に含まれていますので、未読であれば『僕は偽薬を売ることにした』もこの機会に是非ご一読ください。


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